「思想が強い」と囀りたがる者どもの弱さ


〔前略〕


 思想といえば、ネット上で読み書きを覚えた侏儒どもが最近しきりに囀るようになった「思想が強い」という定型句がある。まあ、媚びと身売りと自嘲と空笑のすべてが幼児的な防衛機制で膠着したかのような言語感覚で何か知ったようなことを述べたがる精神性が蔓延してから随分経った。よって、今さらこんな新手の定型句を真面目に糺してもしょうがないのだが、もし私が日常の口語で「ヤバい、誰々さんの言うこと思想強いっすね」と言われでもしたら、返すべきことは「へえ、あなたに "思想を吟味する能力" があったとは驚きですね」以外に無い。
 冗談も大概にしたまえ。端的な歴史性と政治性に拘束された産物でしかない「思想」を、今や歴史性も政治性も忘れ去る狭窄によってのみ辛うじて生き延びているかのような連中が、まともに判断できるとでもいうのかね? たとえば、西暦1930年代のハイデガーの思想を下敷きにした『さきがけ』というタイトルの絵本を出してみたとしよう。その内容を吟味して「いや、ナチズムと同じ結論じゃねぇかこれ」と判断できる日本語圏人は、一体どれほど存在しうるのだろうか? 「うん、感動的な本だったなあ。たしかに、いつか仲間のために立ち上がらなきゃいけない時がくるよね。〔我が子の名前〕もそんな大人になるんだぞお」程度のことしか言えず、『さきがけ』というタイトルの絵本に込められた肝心の「思想の強さ」は素通りして顧みないのが西暦2023年時点での日本語圏読書人の平均的知性・品性ではないのか?

 言うまでもなく、前段落で述べられた諸傾向の直接的な原因としては、第一にソーシャルメディアを介した言語感覚の汚染が挙げられる。以前私は、とある絵描きの Twitter アカウント上で明らかにされている様々な危機的徴候について分析した * * が、実は彼女が直接的に(自分の「意見」として)表明しているツイートの内容よりも、むしろ彼女が favorite 欄に集めている他人の「意見」が、無造作に複数存在するだけの他者性を剥奪されて一定の凝集性を帯びてしまっている事実のほうがはるかに重要なのだ。それはさながら、彼女の内面にしか通用しない名言集が自動的に編纂されてゆく(不断の)過程であるかのようだ。超自我の検閲というよりは幼児的な防衛機制の働きで、「他者を排除するための意見を自分にとって甘いお菓子として摂取し続ける」ような浅ましさは、もちろん彼女独得のものではなく、ソーシャルメディアを介して人為的に植え付けられた習性のいち形式にすぎない。また、この段落で述べたような「個人にとって実害感をもたらさない言葉だけが強度を持たされて流通する」メカニズムを驚異的な明晰さで明らかにしたのが、菊地成孔による名文『命を / 守る / 行動 / を / しましょう』である(有料記事なので買って読むこと)。

 さて、諸事物に内蔵された「思想」の話であるから『グッド・ウィル・ハンティング』でも取り上げようか。私はつい先週この映画を(戸田奈津子クオリティの日本語字幕に際限無く苛まれながら)観直したばかりだが、「アメリカ合衆国におけるアイルランド移民の(とくに、若年層の)様体」を描き出すテーマがあまりにも一貫されていることに驚かされた。

 冒頭でベン・アフレックが直接口にするが、『グッド・ウィル・ハンティング』の主人公が属するのはアメリカ合衆国におけるアイルランド系の、それも低賃金労働者層のコミュニティである。さらに「天才」児たる主人公ウィルの臨床にあたる分析医を演じるロビン・ウィリアムズは、西暦1951年のアメリカ合衆国に Robert Fitzgerald Williams とLaurie McLaurin との間に生まれたという出自から明らかにアイリッシュまたはスコティッシュである。実際に彼が演じる分析医の部屋には IRELAND と大書されたタペストリーが飾られていたり、エンドロールには(劇中で映された)サミュエル・ベケットの写真に関するクレジットが入っていたり、スタッフの名前として Flynn や Fitzpatrickや O'Donnel や O'Connor などのアイリッシュネームが際限なく羅列されたりもしている。そして主人公たるウィルが劇中で経過するのは、自らが生まれ育った環境で受けた虐待の記憶との折衝なのだ。それらは「アルコール依存症の実父による暴力」や「成人男性による男児への性的虐待」など「アメリカ合衆国のアイリッシュ移民がやり(やられ)がちな暴行あるある」の範疇にぴったり収まるものでしかない(もちろんロビン・ウィリアムズ本人もアルコール依存症であった)。

 よって『グッド・ウィル・ハンティング』は、運命によって「天才」的な知能を授かった「特権的」な少年の彷徨を描いた映画ではない。「アメリカ合衆国におけるアイルランド移民」という具体的・歴史的・地理的・政治的条件のもとであらかじめ限定または純化された待遇の只中で育った少年(たち)の様体にフォーカスが絞られており、そこには「超時代的」で「普遍的」な「天才」性への視座など一切含まれていない(実際、我々がいま一種の自明として共有している「天才」概念ですら、イタリア・ルネサンス期というきわめて限定された歴史性・地理性・政治性の所産でしかないことなど誰でも知っているはずではないか)。主人公ウィルの「天才」的知能はあくまで撒き餌にすぎず、その個性が「アメリカ合衆国におけるアイルランド移民の(とくに、若年層の)様体」という大きい集合に包含されて在ることに意味があるのだ。でなければベン・アフレックによる The Best Part of My Day のセリフもあれほど美しくは響かない。「天才」児たる主人公の個性を絶対視するのではなく、その周囲で保護的役割を果たす者の強さ(または偉大さ、とすら言っていいと思う)までもが併せて描かれており、その助けあいが「アメリカ合衆国におけるアイルランド移民の(とくに、若年層の)様体」というきわめて限定された共同性の中で生まれ、成長し、巣立ってゆく。『グッド・ウィル・ハンティング』とはそのように慎ましく己の限界を弁えた者たちにのみ許された明視の映画である。

(つまり『グッド・ウィル・ハンティング』はハリー・スタック・サリヴァンの言う「安全保障感」を専ら念頭に置きながら鑑賞すべき映画なのだが、詳述はすまい。「あっ、サリヴァン? ……そういうことか」と、彼の姓と私が今まで述べてきた理路とを直観的に繋げられる資質の持ち主でなければ、そもそも解説などしたところでわかるまいから。ちなみに、この括弧で述べたことを小説のテーマとして洗練させたのが『χορός』の第9章と第24章である。)

(ちなみに、前括弧で述べたものとは別の「自己肯定感」とやらを無留保に善なる概念として振りかざす輩が跋渉しはじめてから長い。私はこの「自己肯定感」とやらを何か意味あるものとして位置付けている輩を見たら即座に馬鹿者と認定している。なぜなら、前に述べたサリヴァンの「安全保障感[security feeling]」または「安心保証感[reassurance]」は厳密な対人的臨床の場によって得られた治療概念だが、「自己肯定感」とやらはどの原語をベースに訳出されたのかさえ不明な、むしろ厳密な定義を持たないがゆえに「人類が普遍的に備えているはずのもの」として曖昧に持て囃される質のものでしかないからだ。よって「自己肯定感」とやらを用いることによって表明されるのは、その語を使った者は凡庸な自己愛者であるという事実のみである。)

(括弧を重ねるが、エレン・ペイジがジミー・パトリック・ペイジと同様にアイリッシュの出自を持つか否かについてはさしあたり判断の材料が無かった。が、ペイジがのちに取得する男性名と同じエリオット・スミスが『グッド・ウィル・ハンティング』の劇中歌を唄い通している事実は、今になって感動よりも何か荘厳な印象をさえ与える。ちなみに元エレン/現エリオット・ペイジはもちろん男性だが、この時点でエレンとして活動していた彼女をマット・デイモンとベッドの上で絡ませたガス・ヴァン・サントの慧眼は凄まじい。なぜなら、繰り返すが当時エレン・ペイジを名乗っていた彼女も実は男性なのであって、その者がマット・デイモンと肉体的に愛し合うシーンは結果的にゲイセックスの意味を帯びざるを得ないからだ。当時のガス・ヴァン・サントが元エレン/現エリオットの内なる欲望を見抜き、それをゲイ監督として自らの映画内にて一定の美に昇華させたのだとすれば、なんと素晴らしい心身の交感がそこにあったのだろうか。このような「言っていないにも拘らず通じ合ってしまう」セクシュアルマイノリティの能力は、クローゼット外での露出が常態化し、あらかじめ非歴史化・非政治化された自称マイノリティどものヒステリックな自己愛がハッシュタグとともに垂れ流されている現在においては、弱まるどころの話ではなく失われつつさえある。)
(↑本稿を書いた数時間後に気付いたが、『グッド・ウィル・ハンティング』に出演していたのはエレン・ペイジではなくミニー・ドライヴァーだった。私は10年ほど前に初めてこの映画を観て、深い印象を受け、つい最近にも2回観直して Wikipedia で主要キャストらの出自をある程度確認していたにも拘らず、ずっとあの女優をエレン・ペイジだと思っていたのだ。笑いが止まらない。『若者のすべて』をヴィスコンティではなくフェリーニ監督の映画だと思い込んでいた件と同様のことをまたやってしまったわけだ。私がこのような錯覚を率先して行ってしまった原因はもちろん、「のちにトランスセクシュアルをカムアウトする人間がその素性を前もって見抜かれていてほしい」という無意識下の筋書きをそのまま『グッド・ウィル・ハンティング』に適用し、なおかつ都合よく動員可能な働き手としてガス・ヴァン・サントが居たからに他ならない。そして私はこの錯覚を恥じる気には到底ならない。「私が誤読した内容のほうが本編より面白い」という類例は何物にも代え難い体験だからだ。ちなみに「誤読した内容のほうが本編より面白い」という現象を私が起こしがちな傾向を初めて自覚したのは5年ほど前に『私の少年』という漫画の単行本を読んだ時の経験がきっかけとなっているのだが、ここでは詳述しない。)



〔後略〕



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