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勝ったのはフェティシズムだ (『トゥー・オールド・トゥ・ダイ・ヤング』、『ぼっち・ざ・ろっく!』、『君の名前で僕を呼んで』をまとめて同じドブに落とす)


〔前略〕


 さらに不思議なもので、瞋恚に取り憑かれていた頃(6月中盤まで)は余計なテキストを書く余裕など一切無かったのだが、新しい作品に取り組んでいる時期にこそ不思議な祓魔があり、書かれるべき何かを正当かつ穏当に孕むことができる。以下に述べられるのは、主にアニメ作品を介して見出された、「如何にして安易なフェティシズムがフェミニズムやジェンダーイコーリティの芽を根絶してゆくか」についての構造分析である。


 今年5月のことだが、私は多少の小銭を持ち合わせていたため、 Amazon Prime video を再契約した(ちなみに私は自室に常時接続インターネット回線などという甘えた設備を持たないため、作品を視聴するためには予め近場のフリーWi-Fiに接続してデータをダウンロードしておく必要がある)。ひとえにバリー・ジェンキンスの『The Underground Railroad』を観たいがためだったが、『ピカード』のシーズン3も配信開始されていると知り、結果的にはレフンの『トゥー・オールド・トゥ・ダイ・ヤング』や例の『ぼっち・ざ・ろっく!』等を含む多くのシリーズや映画を視聴することになった。

 ちなみに、前の段落で挙げた作品のなかで無留保に賞賛できる内容のものはひとつも無い(最も良かった映画は、BBCが2013年に制作した北アイルランドのパンクレーベルにまつわる伝記映画『グッド・バイブレーションズ』。音楽に関して何らかの思い入れを抱いている人間なら絶対に観てほしい。2013年の映画が2019年に日本公開されたという不思議な経緯なのだが、映画公式サイトのコメントページだけでもお読みいただきたい。私が知る限り、今までに見た「映画配給会社謹製の日本語圏人によるコメントページ」として最高の出来であり、この内容だけでも涙腺が緩むほど素晴らしい。逆に、反吐が出るほど酷かった映画はジョーダン・『ブラック・クランズマン』を収穫した実績だけは褒めてやるがあの直後のリーでさえ『アメリカン・ユートピア』とかいう「アフロビートを利用した北朝鮮映画」みたいな生き恥レベルのモン出しちまったじゃねえかよテメーと親しくした監督は必ずダメにならなきゃいけない呪いでもあんのか今ジェンキンスが中途半端なのもテメーのせいだろ責任取れよ・ピールの『ノープ』と、デヴィッド・『Ain't Them Bodies Saints』観た時点で気付いてたけど結局お前恋エモでしか話進められねえんだろ映像技巧派みてえな体面取り繕ってるけどよおコラお芸術ぶってないでパンテラみたいに一本筋の通ったやつ作ってからアーティスト気取れよこの中っ途半端なテキサス野郎・ロウリーの『A GHOST STORY』。この2作を専ら肯定的に観ることができた人間とは同じ空気を呼吸したくない。ただでさえ私には、その映画に賛辞を呈してしまった人間の部屋に押し入って一緒に当該作を観ながら要所要所で一時停止して「今お前は感心していたようだが、最初からずっと映画を観ていればあのシーンが論理的に成立していないことは明らかだ。お前の意見を聞かせろ。どう感じたかじゃない、映画として明らかに齟齬をきたしているだろうあのシーンは。どうなんだ? 私は〔巻き戻して要所要所のシーンで一時停止しつつ根拠を示しながら〕このようにだらしなく観客の情緒に甘えている映画に対して軽蔑以外の身振りをとることができないのだが、お前はどうなんだ? だってお前は一度この映画を褒めたじゃないか? なあ? 泣いてるのか? 一度とはいえこんな映画を褒めてしまった自分自身のマヌケぶりにうんざりしたか? え? どうした? イヤか? もうこの映画を観たくないのか? だってお前は好きって言ってたじゃないか? どうしたんだ褒めてくれよ、私はお前が言ってたこの映画の良さを理解したいんだよ。わかってるなら説明できるだろ? 私がいちいち指摘するような瑕疵さえも、お前は擁護できるはずだよな? なのにどうして一言も返さず泣いてるんだよ? なんだ? 結局なんとなく褒めてただけなのか? そうか? そうか? うんざりしたって、このマヌケ野郎?」とソローキンの小説のように尋問したくなるほど厭悪している映画が5作ほどあるのだが──ちなみに全て2018年以降の日本公開。あの時期の駄作品群にうんざりして私は映画館に行くのを一切やめてしまったのだ──、Amazon Prime に契約しただけで2作も増えてしまった)。わけても『トゥー・オールド・トゥ・ダイ・ヤング』に関しては、私自身がかつて傾倒していた "思想" らしきものにいい歳こいたレフンがだらしなく耽溺している様を見せられ、尋常一様でないうんざり感を提供してくれた。「ああ、わかるよレフン。君は女性版の『ルシファー・ライジング』をやろうとして、そのルシファーはまだスコピオ段階ってことなんだろ。でもさレフン、神的な女性キャラクターを登場させて、劇中でいろんな男を屈服させて、あまつさえ監督である君までもが神的女性のファンタスムに惑溺してるって、そんなのはフェミニズムでもなんでもないよ。君はなぜ女性を普通の人間として見ることができないんだろうねえ。またホドロフスキーからの影響のせいにするつもりか? 一応言っておくけどねレフン、これは出身地差別でも文化差別でもないが、君に関して最悪なのは、北欧人のくせにホドロフスキーの作家性をそのまま自分自身に輸入しようとしては大失敗しつづけてることだよ。あまつさえアンガーからの影響に関しては、君はそもそもゲイじゃないだろう。なのにノンケの君がそのまま『スコピオ』や『ルシファー』のフェチ=ポップな神話感覚をそのままやろうったって、無理に決まってるじゃないか。なあレフン、もういい加減自分の部屋のビデオ棚を見せびらかすような創作はやめにしてさ、せめて一番身近な人間である伴侶とまともに向き合ってみたらどうだ? 君は『ネオン・デーモン』(←タイトルだけなら本当に面白そうなんだけどねえ)の最後で無邪気に妻への献辞を出してたけど、あんな痛々しい補償行為もないよ。カリフォルニア出身のゲイにもチリ出身のシュルレアリストにもなれない君は、その映画的素質の欠陥を女性への崇拝で誤魔化そうとしてるんだろうけど、それって女性に対して一番失礼な態度だろ。君にとって喫緊の治療は、女性を自分自身と同じ、普通の人間として認識できるようになることだ。それが果たせないうちは新しい映像なんて1秒たりとも撮るべきじゃないね。」と、この括弧の内容をデンマーク語に翻訳することが可能であれば、レフンにとって最も適切な批評と必要な療法の両方を伝達することができるのだが、まあ無理な話だろう。せいぜい『リコリス・リコイル』のシャツを着た関西弁の日本人とブロマンスっぽくつるんでるがいい(←この「ブロマンスっぽさ」がいつまで経っても「ゲイっぽさ」に昇華されない理由こそ、レフンの女性崇拝が決してフェミニズムと結託できない理由と同根であり、まさにそのことについてレフンはアンガーから直接の助言を乞うべきだったのだが、まあ、彼は永遠に気付けないだろう。いま検索して知ったが、どうやらアンガーも先月に死んでしまったらしいし。いよいよもってレフンは『ネオン・デーモン』と同程度にはレズビアニズムともフェミニズムとも無関係な少年性の熱病として典型的な『リコリス・リコイル』──しかし射出物が粘液ではなく弾丸になってしまっている事実は見逃しがたい。あれの第1話放送の翌週に安倍晋三が射殺された事実を加味すると、実に天の脚本家は味な演出をすると思わざるを得ない。ちなみに筆者は以前、Ado の『う』で始まるタイトルの楽曲に込められた銃器×少女の描写から「完全に無力化された表現」を取り出したが、もちろん『リコリス・リコイル』も文字通り同様の射程に含まれていることは言うまでもない。直接的に加担しているのではなく、「厳然として存在しているフェチシズムを見ないことにしている」という抑圧あるいは解離によって加担してしまっているのだ──を絶賛する関西弁の日本人あたりと交流を深め、ますます深い混迷に陥っていくしかないのである)。そして恐るべきことに、この段落で『トゥー・オールド・トゥ・ダイ・ヤング』について述べたことは、そのまま『ぼっち・ざ・ろっく!』と直接に関係するのだ。


 とは言いつつ、『ぼっち・ざ・ろっく!』について詳論などすまい。あれこそ「好意的に評価している者の横につけて本編を再生し、30秒程度の間隔で一時停止しながら瑕疵を指摘し続ける」タイプの鑑賞法が最適な作品であり、私にとっても(第1話の冒頭部から既に)たいへん悪い意味で勉強になった。とくに西暦2020年代にもなって、ファンディスクや同人誌ならともかく、作中の登場人物にメイド服を着せて喫茶〜とかやっているのを見せられた時の衝撃は凄まじかった。『ぼっち・ざ・ろっく!』関連音源のレコーディングとミキシングの質の良さ(決して作曲や歌詞の良さではない)にはもちろん印象を受けたが、その好印象を覆して余りあるほどの衝撃があった。自分に制作の主導権がある作品の中で登場人物にメイド服を着せることに何らかの価値や意味が発生する時空とは、いったいどの宇宙のどの惑星内での話なのだろうか? まさかこの原作者やアニメ関係者は、こういう自作中でのキャラいじりとか、あるいは(このアニメに関する最も巨大な瑕疵だが)登場人物が思っていることを逐一副音声的に解説してくれるセリフ演出とかを、本当に大人の仕事として請け負い、制作し、納品したのだろうか?


 と、前段落のようにいくらでも欠陥を指摘できる作品が『ぼっち・ざ・ろっく!』であったが、話はここからだ。私は本編を視聴後、事(主に原作がアニメ化されるに至るまで)の経緯に興味が湧いたため薄く検索し、その過程で Pixiv をプラットフォームとする当該作の二次創作品に逢着した。誰もが知るとおり、今やアニメやアイドルなどの本編や楽曲にふれるよりも、それに関連するファンたちの奇怪な生態を観察するほうが何倍も面白い時世になってしまった。それらの諸相を仔細に分析しさえすれば、「21世紀に生きる我々が如何に19-20世紀発祥の心的機制に嬉々として絡め取られているか」についての知見を得ることができるし、何より無料である。私は『ぼっち・ざ・ろっく!』関連の人気カップリングと思しいタグから検索し、表示された二次創作品を無造作に閲覧した。

 そして、気付いたのだ。『ぼっち・ざ・ろっく!』の(百合的)二次創作品のほとんどが、21世紀初頭のBL的な手法で生産されているという事実を。

 手法と一語で書いたが、これはもちろん二次創作中におけるシナリオ運び(←もちろんヤマもオチも意味も無いのだが)、キャラクターを描画する際の絵柄、さらには生産された二次創作品が同好のファンダム内で共有されるまでの流通過程、これらすべての要素が、筆者をして唖然たらしめるほどのBLオリエンテッドぶりでそこに在ったのである。信用していただきたいが、私は腐女子の姉とともに育ったため、ブックオフに450円で陳列されていた類の週刊少年ジャンプネタアンソロジー本も大量に読み漁っていた。当時流通していたBL漫画の質的判断の公平性に関しては人後に落ちない者だと自負している。その私から見ると、『ぼっち・ざ・ろっく!』(とくに、橙色の人とピンク色の主人公)関連の二次創作は、完全に21世紀初頭のオールドスクールBLだと言わざるを得なかった。西暦2023年にて『ぼっち・ざ・ろっく!』にヤられた者たちが欲望している「同性感」と、西暦2003年あたりに『テニスの王子様』に狂っていた者たちが欲望していた「同性感」は、ほとんど同じものであるようにさえ思われた。


 もちろんここで指摘されるべきは、二次創作品が流通する場における享受者たちの性別比率(の違い)であろう。私が挙げた "2003年あたりに『テニスの王子様に狂っていた』者たち" の出生は明らかに女性であり、その中に私のような余計者が紛れ込んでいただけだ(姉が所持していたアンソロジーに甘々のリョ→桃モノがあったのだが、あれはもし現物が在れば今でも読み返したいほどに佳かった。あと同じアンソロジーに収録されていた乾貞治のコマの外に「テイ・トウワ」という落書きがあり、それによって少年期の私はテイ・トウワの名前を知った。ちなみに今までテイ・トウワの楽曲を聴いたことは一度も無い)。その逆を取れば、主要登場人物が女性ばかりである『ぼっち・ざ・ろっく!』二次創作品享受者の性別比率は、それはもうきたなくてくさい男性たちばかりだ、と、判断してしまう者がいるとすれば、それは足下の見えていない現実認識であると言わざるを得ない。私が Pixiv で観測した、BL係数の高い『ぼっち・ざ・ろっく!』二次創作品の生産者は、確認できる限りすべて女性であった……と断言してしまえば、「確認できる限りって、そもそも Pixiv の性別欄なんか信用できるかよ」という理性の声が寄せられよう。が、もちろん私はBLくさい『ぼっち・ざ・ろっく!』二次創作品生産者のアカウントに載せられている他作品タイトルにも目を凝らし、そこに表出しているキャラクターへの欲望の質をも総合的に判断した。それによってもたらされたのは、『ぼっち・ざ・ろっく!』(とくに、橙色の人とピンク色の主人公)関連の二次創作の質は、完全に21世紀初頭のオールドスクールBLだ、という見立てであった。


 以上の危うい仮説を前提とすれば、西暦2023年時点での(主にアニメ的イメージを媒介とする)「同性感」に関して、もはや男女の性差は意味を成さないことになる。おそらく、「女性の肉体を持つ者が男性キャラクターたちの関係性に熱を上げる」というわかりやすい図式は融解し、「女性の肉体を持つ者が女性キャラクターたちの関係性に熱を上げるが、そこではレズビアニズムやフェミニズムに繋がる経路は断たれている」、「男性の肉体を持つ者が男性キャラクターたちの関係性に熱を上げるが、そこではゲイライツやジェンダーイコーリティに繋がる経路は断たれている」といった、最も不毛に去勢された「ユニセックス」の諸相が定着を見てしまったのだ。先述の見立てに(昨今流行りの、セクシュアルマイノリティとしての政治性と歴史性を完全に去勢された)エイセクシュアル、エイロマンティック、ノンバイナリー云々の「キャラ設定」関数までをも掛け合わせた場合、そこには「性愛に関心を持たないと自称するくせに、アニメのキャラクターたちのロマンやセックスの有様に関しては部分対象的な凝視をやめようとしない」という、心的エネルギーの経済論=精神分析的に興味深いにもほどがある症例たちを際限なしに確認することさえできるだろう。


 さて、ここでようやく話の半分である。

『ぼっち・ざ・ろっく!』関連の二次創作、それも作品そのものではなく生産者の性自認と表出している欲望の質を、本編を視聴した際とは比較にもならない熱意と精度で検分した私の Pixiv アカウントには、いつのまにか同傾向のイラスト・漫画作品が次々と表示されるようになっていた。閲覧記録から判断された傾向に基づく最適化みたいなことであろう。もちろん『ぼっち・ざ・ろっく!』関連のものが多数であったが、画面を下にスクロールすると「オリジナル」というタグがあり、そこに表示されているものは『ぼっち・ざ・ろっく!』とは些か異なる、いかにも男性オタクの好みそうな、眼球と乳房がでかくて他の描き込みは手抜きな感じの漫画(というか、セリフ付イラスト)作品であった。


〔後略〕



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