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性愛観と宗教観【脳内備忘録】

サキです。最近書くことがないな、そろそろnoteも引退かな、なんて思いつつ、最近頭の中でぐるぐるとしていることを整理しようと思います。あくまで私一個人の見解であって、ガチで宗教とか勉強している方々には先に謝罪しておきます。「観」ですから。そんな教養、私にはございません。

①エロスがかわいそう


男女間の恋愛では「愛している」のフレーズが頻繁に登場するものだが、仏教的には「愛」とは「執着」であり、悟りを開く上で障害となると考えている。キリスト教でいう「愛」も全然違う。キリスト教の「愛」は「神から無条件に与えられるもの」であって、アガペーとも言われる。キリスト教の「愛(アガペー)」と仏教で同義なのは「慈愛」であり、孔子によれば「仁」なんだろう。
では、「男女間の愛とピッタリマッチするのって?」と考えたら、それはギリシャ神話のエロース(エロス)。恋心と性愛を司る神。
しかし、日本人的な感覚でいうと「エロス」とは性欲という意味合いが強く、「エロいわー」といった表現からもわかるように、俗物的、隠すべき恥ずかしいことされる。「君に愛を感じるよ」という意味合いで「君にエロスを感じるよ」と言ったら、残念ながら彼の恋はそこで終止符を打つ。本当は後者の方が正確で、「情熱的なほどあなたを求めている」という意味であるのに、大変遺憾なことである。

日本人はガチの仏教徒は少なく、ふんわり仏教な無宗教だとはいうけれど、それなのに仏教で「執着だから気をつけなさい」と言われる「愛」という言葉が大好き。おおらかに包んでくれてる「エロス」の方は、ギリシャ神話のでもあるのに、日陰でこっそり(シコシコ)するもの、とレッテルを貼られているのは、盛大なる矛盾だと思うし、日本の不思議ベスト20には入ると思う。ゼウスなんて、ヤリチンすぎて、あちこち子供を作って、奥さんヒステリックって構造だよ。ゼウスに畏怖の念感じちゃってるのに、エロースをそんなに馬鹿にして。
エロースくん。本当かわいそう。元々結構な美少年だからね、エロースくん。そして、恋のキューピットの天使みたいな絵、あれねエロースくんだから。クピド(キューピット)が真実の愛とかじゃないから、描かれ方が変わっていっただけだから。本当、エロースくん、名誉毀損で訴えたほうがいいね。みんなもね、これからは、いい意味合いで、「エロース」って言葉を使ってあげてね。
そういえば、kに「愛してる」って言われた記憶はほとんどないけど、「エロスを感じる」は頻繁に言われてきた。kはやっぱり正しいな。そういえば、愛について出会った頃に話したけど、kにとっての愛はアガーぺや慈愛が近いなって思った。

②サピオセクシャルは破門される

シッダールタ(ブッダ、お釈迦様)が好き。関連の本とか読むとうっとりするし、仮に間近で説法を聞けたとしたのなら、興奮して軽くいってしまう、失神してしまうと思う。孔子も好き。弟子との対話で自分の思考を伝えるというのが、セクシー。儒教のカチカチにした考え方は正直私にはしっくりこないけど、「人はそれぞれの立場で様々な役割を演じている」という考え方や礼の概念は、共感するところは多い。そういうものだし、「人間とは何か」の答えがある。その通りにはしないけど。
こんなにお慕い申し上げているのに、サピオセクシャルな私はきっと最終的に破門されるに違いない。だって、サピオセクシャルって「知性に性的魅力を感じる」という意味だから。哲学的な話を聞いて「素敵な思考、かっこいいー!!」かーらーのー、激しく交わりたい、という欲求が出てくるのが私だし、私とkの間でよくある光景だ。美しい思考の説法を聞きながら、体がこんなに反応してるのに、手さえ触れることができないなんてまさに苦行でしかない。そんな私の姿をみて、孔子様はすぐに私を破門なさるだろう。しゅーん。残念。ちなみにエロースは弟子は取らないし、私だって弟子になりたいと思わない。

③性愛は悪なのか?


仏教で厳し目に「やめとけって!!災いしかないよ、マジで」と言われてる「性愛」。とりわけ、「不道徳な性愛」はかたーく禁じてる。宗教とは万人に向けたものであり、「ガチでMBA目指してます!」みたいな意識高い人達のためではない。性愛はアルコールや薬物と同じように依存性が高く、自己コントロールができる人でなければ溺れてしまう。沼という表現もよく聞く。万人に求めるのは酷だ、しょうがない。
ただ、自己コントロールができるまで成長することができるのならば、性愛は必ずしも悪いものではないと思う。環境にもよるだろうし、特に相手によるものだけど、一様に悪者扱いすべきことではないと考える。
だいたい、医学的に閉経が近い女性がそういった行為が少なくなり、膣が濡れる状態がなくなると、健康上よくないらしい。使わない筋肉は衰えるから、骨盤底筋を意識的に動かそう、などとも言われ、むしろ性行為は推奨されているぐらい。つまり、旦那さんが求めてこなくても、セルフプレジャーといった行為は恥ずべきことではなく、むしろ筋トレに励んでいると評価されるものということだ。

ここで大事なのは、自己コントロール(性愛コントロール含む)ができる人というのは、決して他者を批判したり、評価したりしないという点。意識は常に自分に向けられているから、他者の性愛にあれこれ批判しない。もし皆が皆、性愛をきちんとコントロールできるのならば、世界はもっと平和で理想的になるのではないかと思う。なかなか難しいことだから、宗教で禁じてるんだろうけどね。

kと交じり合ってる時、頭の中で真っ白くてキラキラした世界に飛ぶことがあるけれど、そこには性的興奮とは違う「何か」があるような気がしてる。
性愛の先に何か途轍もないものが隠れてるんじゃないかなって思う私は、この本をめっちゃ読みたいのだけど、本棚に並べる勇気がなく、まだまだ我ながら未熟だなと痛感する。1,700円かー。そしてちょっと高いなー。図書館に置いてないかなー。

④区別することで人間は認識できる

kの強い要望で、ショッキングピンクの玩具を購入した話をした。周波数で7種の振動を実現して、リモコン操作も可能というもの。私自身は興味はそれほどなかったのだけれど、そこにも学びがあったので、ここで共有しておきたい。
kの要望だったので、自分で使うことなく、会った時にkが私に使った。視界にはkが入るし、不思議な羞恥心や罪悪感のような感情が芽生えて、不覚にも、いや予想どおり、すぐ体が反応した。しばらくして、ぐったりして放心状態になった。
その後にkのものが入ってきた時、脳内の小人さんたちが大合唱した。

「本物きたー!!!」


大事なことなので、もう一回言おう。「本物きたー!!!」という感覚がすごかった。ピンク色のそれが私の中に入ってた時、私の脳内は必死でkの過去データ(形状、速度など)を引っ張りだし、脳内で最高速度でその様子を再生していた。振動とkを一致させようとしていた。ただその中で、どこか引いたグループの小人たちも脳内にいて、「いやーまじでないわー、こいつ偽物で感じてるし。どう考えても違うのに?あほらしい」って「私」をディスってくる(羞恥心の正体)。私が放心状態になっていても、「マジ信じらんねー」って小馬鹿にされてた気がする。
そこでのkの登場。批判グループが「これこれ!!」と大興奮していた。玩具挿入時とk挿入時では私の脳内はどこがどう活性かされたのか、すごく興味がある。実験があるならしてみたい。とても興味深いデータが出るに違いない。

人は何かと何かを区別することで、初めてそれを鮮明に認識し本物を知る。
これがディルドで学んだこと。

↑これが書きたかっただけ。あーもうこんな時間だ。早くストレッチして寝よう。

KAN(完)

必ず最後に愛は勝つー♪

だいぶ乱暴にしめてしまった。


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