230508(月) 無職鬱日記と昔住んでいた家の話
調子がよくない。動けない日々が続く。「調子がよくない」という状態が長すぎて、時間がない、と思って焦る。無職は時間なんて有り余ってる、暇を持て余してると言う人がいるが、そういう人もいるしそうじゃない人もいる、としか答えようがない。少なくとも俺は生きている限り時間に追われて、それから逃げ続けているのだと思う。
学校のレポートが進まない。やらなきゃいけないのはわかってるけど意欲がない。いや、意欲はあるが、実際に行動に移せない。
自分が唯一プライベートなこと、最近だと生活保護の申請をしている事も話した教師と、今年中に卒業する事を約束した。のに。先月はあんなに「今年は頑張ろう」と思っていた筈なのに。
生活保護の事もそうだ、申請してすごく世話になっているのに外に出られなくて指定の時間に役所に行けない。もう、金銭的にもギリギリの状態なのに。危機感がないのだろうか?近い未来で身に降りかかるであろう災難を具体的に想像する力が欠如しているのだろうか。すみません今日は外に出られそうにありませんと電話する時、ものすごく惨めな気持ちになる。自分が悪い。
明日は学校に行くからという理由で役所に行くのは明後日に延期して貰ったが、明日果たして本当に学校に行けるかどうかもわからない。まだ風呂に入ってない。
レポートの締め切り日までになるべく多くのレポートを出したい。理想を言うと日に余裕を持って、出さなきゃいけないレポートを全て提出したい。その為に明日学校に行かないと。そして勉強しないと。あー。
外に出るにはまずは風呂だ、とにかく目先の一つの目標だけを考えよう。シャワー浴びる、その為に俺はシャワーを浴びる。
ここまで書いて、俺の文章をこの記事で初めて読んだ人は「無職と言いながら大学に通っていてその分際で生活保護の相談をしている妙な奴」と思うかもしれない、そう感じた。学校に行かなきゃとか今年卒業したいとか書いてるから。コンビニで働いていた時、大学生バイトとセンター試験の話をしていたが自分の人生に馴染みが無さすぎてよくわからず適当に返事していた事も思い出した。てか今は共通テストって言うんだっけ。未だにどっちの名称が古いのかすら忘れる。大学にはあまり興味なくて今は行きたいと思わないけど大学院には行きたかった。研究をしたかったから。
小学生の頃は家庭環境はあまり良くなかったものの本ばかり読んでいて国語の成績がずば抜けていたので、なんとなく普通に中学を卒業して高校に行って文系の大学に行って、好きな仕事をして大変だけど充実した毎日を送って、都会の色々な店を開拓したり気ままにドライブを楽しんだりする普通の人生を送るのだろうと思っていた。当時から恋愛・結婚願望は無かったし子供も欲しくはなかったが、普通に生きてりゃ友達ぐらいは居るだろうと思っていた。
ごめんな小学生の俺。今の俺はかなり普通のレールから外れた生き方をしている。仕事もしてないし引きこもりだし車の免許もない、18歳の頃はまだ自動車学校の資料を取り寄せて眺めていたが、金が貯まるまでの間に“運転したくない”という理由で交通の便がいい所を住居に決めるほどの筋金入りの車アンチへと変貌してしまった。まあ精神科で処方された薬を毎日服用しているので運転しないに越した事はないのだが。
友達もいない──と思っている。いつ縁が切れても大丈夫なように、そうなった時の心の安定の為にそう思い込んでいる。ただその、いま縁がある人達もネットでたまに話す程度、いや話すらしない、誰宛てでもない独り言が更新されているのを見て存在を確認し合うだけの関係の人が殆どだから、遊んだり話したりする友達は一人もいない、という事になる。人間関係って遊ぶ話すが全てじゃないだろと思うが、おそらく世間一般の定義ではそんな感じだろうから。その定義に当てはめると友達はいない。
でも挫折が早くて良かったとも思っている。普通に高校や大学に進んでしまってそこでどうやら俺は人生が続くのが苦痛らしいぞと気付いたら、俺は今以上にしょうもない狂い方をしていた気がする。
あの時のあのままで、あの家で育って、普通に生きられる訳が無かったと思う。でも途中で辞めるという選択肢も取れなかっただろう、あの家で生活を続けていたら。そうしてどんどん自分でも気付かないうちに心がすり減って、家にも学校にも居場所がないと感じた時、どうしただろう。俺はたまたまオタク気質で内向的な性格だったから引きこもるしかなかっただけで、外に出るのが苦じゃなく友達が沢山いるような性格だったら何らかの前科あっただろうなとは思う。自分がなんかやらかすというよりは、友達や先輩の巻き添えみたいな感じで。俺は当時意思がなく、自我もなく、更に頼み事を断るのが物凄いストレスに感じていたので。
役所の人に「小学生の頃は普通に学校行けてたんですね」と言われたが、「行かないという発想がなかった。学校に来てない同級生は一人もいなかったから」と答えた。それと同じで、やるのが当たり前という風潮があった毎日の宿題も、友達付き合いの為の作業も、夜中の2時や3時までかかってやっていた。小学生の癖に。翌日は6時起き。おかしい。
俺の通っていた小学校は市内で一番と言われるぐらい治安が良かったが、治安が良すぎるのも子供にとっては良くないと思う。勉強なんてほっといてもっと自由に遊びたかった。友達なんて居なくてもどのグループに所属してなくてもなんとなくでやっていきたかった。成人してから「夏休みの宿題は一回もやった事がない」という人をネットで見かけて、うわーそんなのってありかよ!と思った。そうなりたかったし、そんな人が当時、身の回りに居たらな。
俺の子供時代を語る上で欠かせないのがトイレの話だ。上で書いた、宿題を深夜までやっていたという話の中で“友達付き合いの為の作業”というワードが出てきたが、大人は子供の社会には不理解なもので「そんな事やってないで勉強しろ」とよく叱られていた。俺にとってはやりたくもない事を仕方なくやっているだけなのに、大人からは遊んでいるように見えるのである。
そんな時によくトイレに篭った。本も読んでいたし、トイレの蓋を机がわりにして宿題もしていた。狭い個室の中にその当時の人生の全てを持ち込んでいた。唯一の居場所だった。当然、腹が痛いにしても流石に長すぎる、そろそろ出てこいと怒られ様子を見に来られた。その度に便器の後ろの、タンクと壁との隙間へ持ち込んだものを隠していた。そこに隠すと埃まみれになるので基本はTシャツと腹との間に隠していたが、ある時Tシャツの中の本がバレて普通にめちゃくちゃ叱られた。なのでタンク裏隠しが加速し、トイレに入る度に持ち物を埃まみれにしていた。
なんでそんな、暑くて狭い個室便所という場所に何時間も篭って生活の全てをやろうとするのか?ってことを少しでも考えてくれれば、とかそういうのは、もういい。当時の俺は人に期待しすぎていた。でも誰にも理解されなくても生きていけるという事を大人になった俺は知っている。だからもういい。
ちなみに“あの家”の主な登場人物は、母ではない。母の母、俺から見ると祖母にあたる。
母とも一筋縄では行かない関係で、特に二人で住んでいた頃は一言も会話しない日が何日か続くとかはザラにあった。今思うと完全に俺の鬱のせいである。一人っ子なのに子供の入学卒業を始めとした人生のイベントの殆どを経験させてあげられず、迷惑ばかりかけている事が苦しくて避けていた時期もあった。でも今はたまに会えば普通に話せるし、申し訳無さも勿論あるけどそれ以上に感謝している事が沢山ある。
中学に上がると母がきちんと扉が閉まるプライベートな空間を与えてくれ、そのお陰でトイレに篭る事はなくなった(部屋に引きこもるようになっただけではあるが)。なによりも俺と祖母を物理的に引き剥がして、二人暮らしを始めてくれた事に感謝している。平日毎日働いて忙しい中で俺と祖母の問題から目を逸らさないで向き合ってくれた事で、大袈裟じゃなく、人生が変わった。
最近は夢自体滅多に見なくなったが、以前は人生で一番長く暮らしていた、母と祖母と俺と3人で住んだあの家の夢をよく見ていた。夢の中で俺はいつも何かから逃げたり、隠れたり、怯えていた。起きた頃には汗びっしょりになっている。祖母からの扱いに結構なダメージを受けていた筈なのに、今は何を言われていたかすらほとんど覚えていない。でも夢で見るという事は本当は覚えているのかな。漠然とした恐怖のイメージが植え付けられているだけだろうか。
あの家は、今は誰かの手に渡って知らない人が住んでいるらしい。当時の近隣住民はまだ住んでいるのだろうか。それにしても、度々俺の狂ったような泣き叫ぶ声や祖母の怒号が聞こえていた筈なのに警察や児童相談所が一度も家に来なかったのは治安が良かったからこその弊害か。下手に通報すると躾ですよと一蹴され、ご近所トラブルになりかねないからな。波風立てたくない人ばかり住んでいたのかもしれない。
怖いのが、祖母は外面が良いから友達が沢山いるし近所の人にも慕われていたという事実だ。あの猛獣でも飼ってんのかという大騒ぎを連日聞いてその上で祖母に愛想良くする近隣住民は、あれか、下手に怒らせると怖いから仕方なく笑顔で接していたのだろうか。むしろ弱み握られてたとかであってくれ。俺が本当に言う事を聞かない厄介な子供で、躾の為だからうるさくても仕方ないのだ、と思われていたとしたら悲しすぎる。
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