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小説『北』

『北』
                                   樋渡 学
 
  私はそれを朝のニュースで知る。彼は私に言った。
「僕らならやっていけると思うんだ」
 その言葉の意味が、今となってはもう分からない。
「本日未明、坂本優さん一七歳の遺体が自宅の自室で発見されました。病院に搬送されましたが先程死亡が確認されました。自室にて遺書が見付かったところにより自殺であり、事件性が薄いと思われます。引き続き警察の調べが進んでおります」
 坂本優と知り合ったのは一ヶ月ほど前だった。私が頻繁に覗いていた佐伯国芳と言う小説家のファンサイトでの事だった。ちょうど新作が発表されて、新しい書き込みが多くなってきていたところ“佐伯”というネームで頻繁に書き込みが行われているところが目についた。最初は小説家の名前を使う辺りがイタイ奴だと思っていたが、私はその書き込みにどこか惹きつけられるところがあった。みんなが新作の考察や感想を書き込んでコミュニケーションを図っている中、彼はポツポツと静かな投げかけや独り言のような事を書き込んでいた。
「なんでいつもと違うを普通にしないのか」
「僕達は一人じゃない」
「朝目が覚めたら鳥になっているだろう」
「そちらはどんな天気ですか」
「間違いを正すことは容易ではない」
「僕は考えるという事がとても苦手です」
「読むという行為は考えると同義でしょうか」
 それは誰にも見向きもされず、書き込みの中でも無視され続けるのだった。私は、そのコメントをいつしか楽しみにしていた。
「手のぬくもりを知りたい」
 彼の投稿だ。私はそこにコメントをした。
「貴方は誰ですか」
 五分足らずで返信が来た。
「僕は佐伯です」
 彼は意地でも佐伯を名乗った。私はそれをみて、この人は悲しい人なのかもしれないと思った。
「私は伊本と申します」
 私はプライベートの掲示板を立ち上げ、URLを彼の投稿にコメントした。それから彼の顔を直接見るまで、その掲示板に入ってくる人はおらず、私達の連絡ツールとしての役割を果たした。
「伊本さん、こんにちは。私は本当に佐伯と申します」
 意地でもそう言い張る。自分でも何故本名を晒したのか分からないが、そうする事でしか彼の心を開けないと思った。なんというか、彼はいつも一人だった。何を書き込んでも誰にも見向きもされず、そこに居るはずなのに存在していないかのような扱いを受けていた。私に似ているな、と感じた。その感情が私にこのような行動を取らせている。
「では佐伯さん」
 私は佐伯の本名を諦め、続けた。
「貴方はなぜあのようなところで書き込みを続けたのですか」
 すぐにコメントはやってくる。
「僕は希望を見ました。小説に引き込まれるうちに自立したいと思ったのです」
「貴方の個性ですか」
「僕の言葉は僕の個性だと信じたいです」
 なんとも本心が伝わりづらいコメントだった。しかし私はこのやり取りを楽しんでいた。何より、私は小説家のファンサイトで行き交う、新作きっかけのニワカ新規に嫌気がさしていた。今このメッセージのやり取りをしている人物は、そんなネットの住民と少し違うように思われた。私達はやり取りを続けた。
「私は一六歳の女子高生です。貴方は」
「僕は貴方の一つ年上です」
 勝手に年下だと思っていた。なぜそのように思っていたかははっきりとしないが、どこか幼稚な印象があったのだ。
「同世代ですね。貴方は今回出た新作からの読者ですか」
「はい。貴方は昔からの読者さんでしょうか」
「はい。私はしばらく前から何作品か読んできました」
「どれも面白いですか」
「はい。とてもおもしろい作品ばかりです」
「貴方は佐伯先生の作品が小説の中で一番好きなのでしょうか」
「そうです。他にも小説は頻繁に読みますが、私にとって佐伯先生の作品は救いでした」
 ここでコメントが止む。それからしばらく返信は来ず、一時間二時間と時間は過ぎてゆく。それからも、読書の横目にコメントが来るのを待ったのだが叶わなかった。返信が来たのは翌日の深夜の事だった。
「佐伯というのは嘘です。坂本と申します」
 それだけが送られてきた。私はそれをみて、この青年はなんて純粋なんだろうと感じた。私が、先生の情熱的なファンという気持ちを汲んでくれたのだろう。
「坂本さん。改めてよろしくお願いします」
 私達はその後、本名でやり取りをした。下の名前はあの日の別れ際に知った。
「伊本さん。失礼をいたしました。僕はあの後考えました。僕が佐伯を名乗った本当の気持ちを」
「その気持とはどんなものですか」
「自分自身を見失ってしまいました。あの作品に出会って、世界に引き寄せられるにつれて、自分自身では分からない人格が生まれた気がしたんです」
「それは悪い方向に向かったのですか」
「とんでもないです。いい方向に向かいました。希望を見たのです」
「私も、この新作にはとても良い印象がありますよ」
 最初は佐伯先生の新作話しに熱はこもったが、そのうち一週間二週間とやり取りを続けると、もっとパーソナルな部分に触れる内容になっていた。そして、私はますます彼に興味を抱いた。それは彼も同じだったようだ。やりとりして三週間が経った頃だ。
「伊本さん。僕は貴方と話がしてみたいです」
 私もだった。私と彼は一週間後の土曜に、京都の鴨川で会う事になった。冬の出来事だ。寒さは年内ピークを記録しており、京都の町では、積雪が前年の二倍を記録していた。土曜は雪が落ち着き、比較的外で行動しやすい日である事を天気予報で調べておいた。午後六時。もう日は傾いてあたりは薄暗い。八坂神社から鴨川に歩いたすぐのベンチで待ち合わせをした。私が先に着き、手袋を忘れた指先を吐息で必死に温めていたところ数分後、彼は現れた。フレームの細い黒縁メガネに、その薄い眼鏡にさえも負けてしまいそうな、覇気のない表情。髪は伸びきっており、目の辺りが鬱陶しそうだ。背は高く、私の身長の頭一個分くらい上だろうか。紺のキルティングコートにウールのパンツととても温かそうにしている。とてもシンプルな出で立ちに掲示板での投稿を重ねた。確かにしっくり来るのだが、もっともっと地味なイメージだった気もする。私はどう思われているのだろうか。少し恥ずかしくなってくる。
「改めて、初めまして。坂本です」
 彼の声は低いでも高いでもなく不思議な響きを持っていた。とても柔らかで尖っているものがなにもない。いつまでも安心して聞いていられそうな声だった。
「改めまして、伊本と申します」
「伊本さん。よろしくお願いします」
「こちらこそ」
 私達は直接会う約束をしたものの、特に目的はなく、理由はきっとお互いになんとなく惹かれたからといった曖昧なもの。緊張と緊張がぶつかる、なんとも言えない空気になる。
「座りましょう」
 彼はベンチに私を促し、私が座ったのを見届けると横に座った。距離感も、なんとも言えないものである。彼の心情が伺われた。必要以上の接近を避ける意識をして、会話をするには少し距離を取りすぎた。そういった印象が伺われる距離感だった。それを思ってか彼は一度座り直しほんの数センチだけ私に身を寄せた。その一歩が私達には大きな一歩だった。なぜか心が揺れ動かされる。数センチの距離は私達にとってとても大切なものだった。
「新作。とても良かったですね」
 彼は言う。私達は掲示板で話した内容を復唱していたようなものなのだが、それでも顔を見ながらコミュニケーションを取るという事は掲示板でのやり取りと決定的に違っていた。彼の表情が刻一刻と明るくなっていく。私の表情も柔らかくなっていると実感できた。とても幸せな空間だ。周りはもう暗い。数少ない街灯に限界を感じた。
「珈琲でも飲みませんか」
 彼は祇園の喫茶店に私を誘った。その店まで二人で歩く。
「駄目だ」
 店はもう閉まっていた。
「もうそんな時間だったか」
 彼は残念そうに笑う。私達の時間はもう終わろうとしていた。まだ話していたい。彼とずっと話をしていたい。笑う姿をもっと見ていたい。次第にそう思うようになっていた。なぜか、彼とはもう会えないと予感していた。二人に沈黙が訪れる。彼は今何を考えているのだろうか。少し俯き気味の彼は、寒さに今更気付いたかのように小刻みに震えていた。ポケットに手をつっこみながら俯いている。
「あの」
 彼はなにか思い切ったように言う。私はそれに応える。
「はい」
「これ」
 彼がポケットから取り出したのは、小さな手のひらサイズの紙袋だった。
「プレゼント」
 そう言うと、彼は私がそれを開けるのを見守る。誰かにプレゼントをもらうのなんていつぶりだろうか。硬いものが手に触れる。取り出す。
「コンパス」
 不思議な贈り物に私はつぶやいていた。
「何を渡そうか迷ったんだけど」
「嬉しい」
 コンパスが北を指す。それが何か私達の目的地のように。とても素敵な贈り物だと思い温かな気持ちになった。そして再び沈黙が私達の間に居座る。
「また」
 そう言って少し言いよどんだ彼は続けた。
「また時間を過ごしたい。僕は今日とても幸せでした」
 私は無意識にその言葉を待っていたのかもしれない。冷えた指先で彼の手をとる。彼の手はもっと冷たかった。
「名前は」
「優。坂本優」
 そうして私達の全てが始まろうとしていた。
「周辺住民の証言では、昔からとても静かな子だった、いつも家にこもりがちな印象だ。などとあり、比較的静かな青年であったと伺われます。母親の恵美さんは涙ながらにインタビューに応じました。事件性は無いものの、いじめ問題など学校側の責任に関する調査が引き続き行われるそうです」
 私は、自分の中のすべてが空っぽになった音を胸の奥で聞いた。自室に戻り机の上に置いてあるコンパスを手に取る。コンパスは相変わらず北であろう方向を指している。その先に何があったのか私は知りたい。
                                       完
 

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