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小説『セイキスイッチ』

『セイキスイッチ』
                                   樋渡 学
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
「沙知。ご飯出来たぞ」
 キッチンから隆文が呼びかけてくる。私はここ数日の排尿停止について心底不安に駆られていた。最初は病気かと心配したが、病院での検査はさほど問題無く、精神的なものから来ているかもしれないと言う事で数種類の精神安定剤を処方された。そして、投薬を続けていたが、やはり排尿は止まったままだった。
「沙知」
 隆文の声が再びする。私はそれに答えられないでいた。
 検査の時以来、私は性器の存在を疑う事なく過ごしてきた。そして今に至るまで弄る事もしなかったのだ。しかし、触れた。性器があるはずの場所に性器が無いのだ。私は放心していた。やっとの思いで立ち上がる。私は性器を失う事によって、他に何が失われるか無意識のうちに考えていた。
 トイレを出てリビングへと入る。
「どうしたの。さっきから声も聞こえないから心配したじゃないか。お腹でも壊した」
 答える気力がない。
「沙知。大丈夫」
「うん」
 やっとの思いでそうとだけ答えた。
 目の前のテーブルには、目玉焼きが乗ったトーストと味噌汁が並んでいる。食す。食パンのさくっとした食感がする。卵の白身が柔らかい。しかし味がしない。全くと言っていいほど味がしないのだ。私は欠落したものの大きさを実感した。
 急いで処方された精神安定剤を口にする。台所のガラスコップに十分水を注いで、薬と一緒に飲み干す。喉を錠剤が通るのを感じた。即効性のあるものなので、眠気がじきに来るだろう。私は何も考えたくなかった。
「大丈夫かよ」
 その光景を見ていた隆文は、顔を白くし私を心配する。
「とにかく会社行ってくるから、下手に動かず安静にしてろよ。どこが悪いのか分からないけど必要があったら病院にも行けよ」
「うん」
「一人で行けるか」
「うん」
「なんかあったらすぐに電話して」
「ありがとう。いってらっしゃい」
 隆文は玄関を開けて外の世界へ出て行った。私は一人部屋に取り残される。
 精神安定剤がゆっくりと体を満たし、段々と眠気が襲ってくる。私は足を引きずるようにしてテーブルに再びつく。残していた分のトーストをかじる。やはり味がしない。味噌汁をすする。こちらもほとんど味がないが、ほんのり甘く感じられた気がする。本当は食べる気力も無いのだが、隆文に悪いと思い残った朝食を平らげて皿をシンクに入れる。食器を洗おうとしたところで目眩がする。眠いのだ。私はそのまま皿を洗わずに寝室へゆき、深い眠りについた。
 気づくとリビングから音がする。カーテンを開ける。外は真っ暗だ。半日寝てしまっていた。それはとても深い眠りで夢を見ることは一切なかった。
「お帰り」
「ただいま」
 隆文はスーツ姿のままソファーに座り込みテレビを見ている。丁度バラエティー番組で、屋外にいる芸人が顔に白い粉を振りまいているところだった。何が面白いんだろうと冷めた目で見る。次の瞬間その芸人は高い橋の上からバンジージャンプをした。芸人は叫び声を発する。それを観て、隆文は少し笑う。
 重い体を動かし、隆文の隣に座り込む。手に触れる。暖かい。今、隆文は私の体の中で何が起こっているかを知らない。知らないままで良いのか。しかし性行為の際に絶対ばれてしまう。いつか分かる事なのだから今言ってしまった方が良いのかもしれない。私は決心する。隆文の目線の先にはテレビがある。その中で芸人はバンジージャンプの紐に揺られて奇妙な表情のまま凍ついている。
「あのね」
「ん」
 隆文の顔はこちらに向けられる事がない。
「隆文」
 何か重大な話だと察知した隆文は初めてこちらを向く。
「どうしたの」
 しばらく静止する。うまく言い出せない。どこからどうやって話すべきか。排尿が止まったことは前回の通院で隆文も知っている事だ。その後からの話をすれば良いのか。もう事実だけを打ち明けてしまおうか。私はまず事実を伝える事にした。
「隆文、あのね。私、性器が消えたの。無いの」
 隆文は本気だと思っていない、もしくは理解が出来ていないような表情を浮かべて言った。
「どう言うこと。性器が無い。排尿が止まったのはそのせい」
「そう」
 隆文は深く考え込む。
「なんでか分からないわ。でも、無いんだもの。私だって理解できないわ」
「まだよく分からない。穴が無いってことかい」
「そうよ」
「いつからだ」
「気づいたのは今日。でももう少し前からなかったのかも。ずっと確認していた訳じゃ無いから」
隆文は静止する。指を顎に固定したまま動かなくなった。
私はたまらず叫んだ。
「見てみれば分かるわよ」
 そう言って寝巻きのズボンと下着をいっぺんに下ろした。自分の視点から陰毛だけが窺える。その先に性器はない。陰毛は果たして何を覆っているつもりなのだろうか。主人が出て行った家を守る、取り残された番犬の様だ。私はたまらなかった。しかし立ち上がった私の、性器が本来ある場所は隆文の目から見える位置に無い。私はテーブルの上の物を蹴散らし、その上へ乗って開脚した。隆文は言葉を失っている。その姿が居た堪れない。しかし人に同情してどうする。一番同情されるべきは私であるはずなのに。私は怒りと悲しみを抑えきれず、開脚したまま涙を流した。
 隆文は何も言わず寝室へと姿を消した。それが答えなのだろう。それだけの事なのだ。何か言ってもらえることを期待してはいなかったが、やはり悲しかった。喪失感が心を覆う。私はその隆文が消えた寝室へと入り、電気を付けタンスから最低限の衣服を取り出し、バックパックへと詰めた。その他必要なものを揃えて入れ込み、声もかけず家を飛び出した。
 契約が隆文のものなので私が出て行くしかなかった。しかし実家はさほど遠くない。実家に戻ることにした。
「あら。久しぶり」
 玄関で母親が迎えてくれた。私の表情と荷物を見て何か察したらしい。
「大変だったね。お入り」
 そう言って部屋の中へと背中を押された。安堵が押し寄せる。もう、失うものは失った。性器とはなんなのか。性器とは、そんな重要な役割を果たすものなのか。性器が有るのと無いのとでは大きな違いがあるのか。もう考えても仕方が無いことだ。しかし、これからどうしよう、と直ぐに現実的になった。これから性器を失った私を愛してくれる人なんているのだろうか。悲しくもそれはいないだろう。
「おう、沙知。久しぶりだな」
 リビングでは父が晩酌をしているところだった。父も私の事を察したのだろう。いつも以上に優しく接してくれた。
「ありがとう。ただいま」
 私はそれをしっかりと両親に伝えた。
 部屋は家を出た時と何も変わっていない様子だ。勉強机とベッドと本棚。とてもシンプルな味気ない部屋だ。しかし懐かしさを感じ、その直後安堵が押し寄せ急に眠たくなった。私は服も着替えもしないでそのままベッドに横たえた。
 深い眠りだ。しかし闇の遠くの方に女性器が浮いている。ぼんやりと漂っている。次の瞬間それすらもなくただ眠りがあるのみだった。
「沙知」
 母の声で目が覚めた。扉の向こうに立っている様子だ。次にノックの音が聞こえる。
私は、起き上がり扉を開け
「おはよう」
 と声をかける。
「おはよう。沙知。これ貴方宛の封筒。何かしら」
「私に」
「そうよ。ここ見て頂戴。尾崎沙知様って書いてあるでしょ」
「本当だ」
「沙知が家を出てから沙知宛に何かが届いたことなんてないんだけど」
「昨日今日の話だからね、帰ってきたの」
「なんか妙ね」
 尾崎沙知様。そう書いてある。字がとても大人のものとは思えない。拙い感じでどう見ても小学生の字にしか見えない。
「一応渡したからね。気をつけなさいよ。まあ、何かあったら警察に行けばいいんだから」
 母が冗談らしく言った。しかし冗談じゃ無い。なぜ小学生から実家の私宛に封筒が届くのか。性器を失ったところから普通では無いのだから今に始まった話では無いのか。用心してゆっくり封を破る。
 先に出てきたのは電気のスイッチだ。よくホームセンターなどで見かける至って普通のスイッチが掌に転がった。中に手紙が残っている。私はそれを恐る恐る取り出し、広げた。
 
―尾崎沙知様
 僕は自由研究でスイッチを作りました。これが本当に成功したかは、あなたに会わなくてはわかりません。僕は必死にこのそうちを作りました。成功していることをねがっています。
思いついてしまったので作りました。必要な時にスイッチを入れて、そのほかの時にはスイッチを切ればいいのです。
 このスイッチですが、僕がこの前学校で勉強した大人の体に関係することです。女の人と男の人は性行為と言うことをして子供を作るらしいですね。そして僕は女性器について初めて知りました。まさか女の人の体がこうなっているとは思いもしなかったです。僕はそこに興味をいだきました。その穴をふさいでしまったらどうなるかという事です。僕はこのスイッチを作って女の人のまたに開いている穴をふさいでみたいと思いました。だから、研究が成功していたら沙知さんの穴はふさがっていることでしょう。しかし安心してください。このスイッチは、切ると穴が元通りになるよう作ってあります。だから、ただの好奇心で穴をふさいでしまってごめんなさい。スイッチを切って穴を元通りにしてもかまいません。
 おかげで自由研究はとても楽しかったです。ありがとうございます。―
 送り主の名前がない。意味はわかるが、理解が遅れる。この少年はなんなのだろうか。しかしこのスイッチを切れば全て元通りになるのだ。私は急いでそのスイッチを切った。
 何かが変わった感じはしない。しかし股のあたりに微かな違和感があった。しかしそれも気のせいかもしれない。
 しんと静まり返った自室で下着を下ろす。股を弄る。そこに性器は存在しない。スイッチを切り替える。何も変わらない。それを気が狂ったように繰り返す。何も変わらない。私はそれを繰り返すしかなかった。地面に少年からの手紙がある。

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