言の葉の中であなたを照らす文を書こう
案内役がいないと迷子になった
何度もキーボードを叩いては文字を打ち込む。その後、"delete"のキーを叩く。無情にも文章は一瞬にして消えていく。「どうせ消すらなら最初から書かなければいいのに」と誰かが僕に語りかけているようにすら感じる。
「あなたの目指すところは南東だから、あっちに3km進みなさい」と教えてくれるような案内役は僕にはいない。僕はライターや文筆家ではないから案内役なんて存在しない。案内役がいない僕は青々と生い茂る言の葉の中で迷子になった。
とても遠くに見えた一筋の光
大晦日にnoteを数時間以上も書いては消してを繰り返した。書き終えるのを諦めるぐらいに疲れ果てていた。
書き疲れて自宅の椅子の上でうなだれ始めていた。構えと言わんばかりに僕の周りを闊歩し続ける愛猫。それをやりすごしつつ、もう一度PCの画面を眺める。少し息を整えてからまた静かにキーボードを叩いた。
その時だ。ほんの一瞬だけ言の葉の向こうに光を感じた。微かな光だった。
次の瞬間にその光はどこかに消えてしまった。
あの日見た光は幻じゃなかった
毎日が飛ぶように過ぎ去っていく。大晦日に書いたnoteに見えた光のことなんて忘れていた。
そんな僕は飲みに行って帰り道を歩いていた。なんとなく新年の浮かれた空気感がまだ少し残る街中でふとTwitterを見た。
井上さんにとって、このnoteを書くことは必然だったような気がする。具体的な理由は問題ではない。ただ、書く中で、光を見つけた。その事実の方が重要で。この賞がきっかけとなっているとすれば、これほどうれしいことはない。熱に共鳴する。
静まり返っているのに浮かれた声がどこからか響く。スマホの画面を見ながらひとりでつぶやいていた。
「あの日見た光は気のせいじゃなかったんだ」
そっとつぶやいたその言葉が白い吐息と一緒に空に消えていった。
光を見つけるために文を書く
あの光を見てからPCの画面に向かっていざ文を書こうとしても、手が止まるようになった。「うーん」と唸りながら首を傾げるのが日課になった。
PCの前に座っても文は思い浮かばない。手も動かないし、頭も働かない。
PCの前で考えることをやめて、ベッドに寝転がる。「あの文は僕にとってなんだったんだろう」と部屋の天井を眺める。
5分ほど天井を眺めながら「言葉や文とは自分にとってなんぞや」と考えていた。ふと、あるnoteのことを思い出してもう一度PCの前に座った。
落ち込んだ心は、言葉や物語を描くことによって浄化されたり、洗練されたりしていきます。心にある〝もやもや〟を言葉に落とし込むだけで、一つ前に進めます。そこから再出発できることもあります。
液晶画面に映るこの文を何度も繰り返して読んだ。そうすると大晦日に書いたnoteの意味がわかってきた。
「自分の無力さに落ち込んだ過去の僕」を励ますための手紙だった。
「傷が癒え始めて明日を考え始めた僕」を賞賛するための手紙だった。
あれは、僕自身が過去と未来の僕に宛てて書いた手紙だった。
書くことは自分を照らす光を探すこと
「誰かにとって役立つ情報でなければいけない」と文を書く時に思っていた。文を書くことは伝えるためにするものだとずっと思ってきた。
でも、大晦日に頭を抱えながら書いたあのnoteが教えてくれたことがある。
誰かに伝えるための文もあるけど、自分のための文もあってもいいはずだ。自分のための文は下手くそで、稚拙で、傲慢だろう。もしかすると誰にも届かないかもしれない。
でも、あなた自身には必ず届く。言の葉の中の微かな光はきっとあなた自身を照らしてくれるはずだ。
そして、あなたこれまでの道程とこれからの行き先を、そっと優しく教えてくれるだろう。
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大晦日に書いたnoteがこちら。
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