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「乾杯」と言える頃に、また会いましょう

カウンターには人が溢れている。部下に自分語りをするサラリーマン、ワイドショーで仕入れたネタで盛り上がる初老の男性、友達と彼氏の愚痴を言い合う女性たち。

それを見ながら酒を飲む僕。いつもの光景だった。ありふれた日常の一部分でしかなかった。ありふれた日常は、どこか遠くへ行ってしまった。

頼むから帰ってきてくれないか?いや出て行った妻に懇願する離婚寸前の夫みたいだけど、本気で言ってるんだよ。

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フグが上下反転したまま、水槽の底に沈んでいる。エラは動いているからかろうじて生きてはいるみたいだ。美味しく食べられるはずだったフグは淀んだ水の中に放置されて、どんな気持ちなんだろうか。

そんな光景を見てからもう2週間近く前だろうから、もうフグはいなくなっているかもしれない。怖くて見に行くことができない。

生きてても死んでても、そのフグの姿を見るのが怖いのもあるけれど、「準備中」「CLOSE」の文字を見るのが怖い。お世辞にもきれいとは言えないこの街には、みんなの当たり前があったはずで思い出や物語が染み込んでいたのにすべてなくなってしまうような気がして怖い。

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僕の生息地は裏なんば。
1年間通いつめ、行きつけのお店がいくつかできた。そっち系のDVDで有名な企画『MM号』の出演オファーを受けたり、飲んでたら仲良くなったおじさんに奢ってもらったり、本当に思い出が尽きない。
あ、MM号への出演は断り続けてなんとか回避した。帰り際に話しかけてきたお兄さんにお尻をギュッと握られたけどなんとか逃亡できた。

▼僕の裏なんばでの生態についてはこちら▼

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「お酒は楽しく飲むもんやで。それが一番うまいねん。」

裏なんばに入り浸り始めた頃、少し仲良くなり始めたばかりの店員さんに言われた言葉だ。

その頃の僕はお世辞にも顔色が良くなった。その数ヶ月前に事業を潰し、たくさんの人に迷惑をかけ、責任に押しつぶされて体調を崩してようやく回付し始めた頃だったからだ。死んだ魚のような目で、どんよりした空気を引き連れてアルコールを摂取していたのだろう。

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だれかが近くにいることを感じ、自分の存在も感じられた。ただ、お酒を飲みに言ってたんじゃなかったということが今更わかった。

いつもカウンターの真ん中にいたおばちゃんは元気かな。建築業を営んでいると言ってたガタイのいいおじさんの仕事は大丈夫だろうか。少ししか話したことはないけれど、勝手に心配している。

以前の日常が戻ってくるかどうかはわからない。いつ混乱が収束するのかもわからないし、もしかすると新しい当たり前に向かって生きていかないと行けないのかもしれない。

でも、あの頃みたいに何も心配せずカウンターでお酒を飲める日がきたら、心の中でそっと「乾杯」と言おう。偶然に同じお店でお酒を飲んだだけかもしれないけれど、大切な日常に乾杯して、楽しくお酒を飲もう。

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