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【小説】お前は魔界でも成功していない

 魔界の彼女とこの世の僕と、表裏一体の存在だから、彼女を傷つければ僕も傷つくし、彼女を殺せば僕も死ぬ。
 「だから、私を殺して楽になって」
 彼女は泣きながらそう言った。涙が頬を伝っていく。僕の視界も見えない。あれ? どうして僕は泣いているんだ?
 僕は死ぬのを恐れてない。どちらかというと早く死にたい。
 さっさと、この世と蹴りをつけたい。
 だから、だから──。

 だが、
 現実に今、彼女は泣いている。
 選択を受け入れているからなのだろうか、声を揚げずに静かに泣いている。
 泣いているのは、否定の証だ。深層心理、情の本心には逆らうことはできない。魔物といえども感情を持っている。情念を持っている。欲求を心の内に秘めている。
 人を動かすのは、涙かもしれない。本人の意思とは無関係に、涙は隠れた内情を表層へと紡ぎ出すのだ。今、目の前にいる妖精のように。
 わかった。わかったよ。僕が君の選択を受け入れるよ。
 だから、だから、頼むから──、
 「──もう泣かないでおくれ」
 彼女の頬に伝う涙を、親指の腹で掬いながら、そう言った。

 僕は、カッターを手に取り、首を括るため縄の、輪の部分を切り裂いた。
 終わりに達さず、僕はまだ生きていくことを決めた。この絶望の人生で──。


 こいつが見えたのは、十月の下旬だったか、取り敢えず昨日と比べて相対的にとても寒い日のことだった。僕はレポートの調べ物をするために大学の図書館を訪ねていた。調べ物をしていて、調べているはずだったのだが、結局何も得る物がなく、何も調べ上げることもできず僕は途方に暮れて天井を見上げてみた。なんか所かに雨漏りの染みがいくつか出来ていた。この図書館もかなりの年期が入っているのだろう、なんて思った。そしてそのまま、肩の凝りをほぐすために、ぐるり、と体の上半身を180度回転した。180度回転してその視界から見える窓を見て、心が奪われた。
 もう外は真っ暗だった。まだ午後六時にもなっていないのに。
 僕は何を思ったか、気分転換に窓の外でも眺めようか、と席を立ち上がった。
 立ち上がって、全身を向けて窓を見た。
 すると、そこに幼女が窓に描かれていた。
 白だ。白い絵の具か何か、いや違う。あれは恐らく偶々出来た染みだろう。白い染みで、幼女が偶々描き表されている。
 とても綺麗だ。偶々だから余計に綺麗に見えるのかもしれない。
 何となく僕は笑顔になって、もう今日は帰ろうか、なんて考えて席へと戻っていった。席へと戻り机の上に散らばったノート類をナップサックに入れ、さあ、帰ろう、と閉じたナップサックを右肩にかけた、その時だった。
 「後ろを、振り向いてご覧なさい──」
 声がした。いや、声がしたような気がした。気がしただけだ。きっと疲れているのだろう。今夜はゆっくり休んで明日の一限に備えよう、なんて自分に心の中で語りかけながら、一瞬だけ止まった足をまた、踏み出そうとして──。
 「聞こえておるんじゃろう? 心音こころねけい。お主じゃ」
 と、追従するように僕の名前を呼ぶ声が。
 多分、触れないほうが良さそうな懸案だ。
 僕は知らない振りをして、前へと歩きだした。
 「なに無視シカトこいとんじゃい? 儂がこっちを見ろっっとんのが聞こえんのかワレ?」
 なんて、聞こえてきた、いや、正確に言うなら響いてきた、というところか。
 間違いない。誰かが後ろで僕を呼んでいる。それもテレパシーとかいう方法で。
 僕の背筋に悪寒が走る。あり得ない。僕は超常現象とかからは無縁の存在のはずだ。こういう時、どうなんだろう? 逃げるのが正解か、はたまた相手の言うことに従うのが正解か。従うのであれば抵抗せずに黙って従う他はない。
「なんだ? こっちを見んのか。そうかそうか。なら別にこっちを見んでよい。《《直接こっちを見させてやろう》》」
 そう言われたかと、思うと、僕は窓の前に立っていた。
 目の前には白い染みで描かれた、幼女が一人、窓の外を見る格好で存在していた。

 「…………」
 何が起こったかは、分からない。だが目の前に窓があり、そこに幼女が一人立っていることだけは確かだった。
 「一つ、お願いがある」
 幼女は僕に伝えてきた。
 「ここから儂を出してくれ」
 無茶だ……、突然に無茶苦茶なお願いをされてしまった。果たして何をすればいいか分からないけれど、取り敢えず、何か意思伝達をしてみようと試みることにした。頭の中に念じてみる。
 「絵画のくせに無理すんな」
  ……どうだろう? 伝わっただろうか? もう一回念じてみる。
 「……伝わったか?」
 「ああ、存分に伝わったよ。お主の非道な冷たき言葉が儂の心を貫いた。随分と上から目線の様じゃの。お主は何様じゃ? 三次元で空間を行き来できるだけで図に乗るんじゃないぞ若造が」
 「俺にはお前を助ける義務もなければ責任もない。何だ、俺はお前の保護者か? 親友か? どちらの記憶を探っても、お前の存在は微塵にも検索されないね。だから、俺は家に帰るんだ。家に帰ってコンビニのおでんを食べるんだ。すまねえな。俺は帰るぞ。じゃあな、別の奴に頼めよ。御武運を祈るぜ」
 そう言うと、僕は回れ右! して、出口に向かって歩きだした。
 うう、やっぱり少し冷えてきたかな? なんて思って歩を進めていると、
 ガンッ! 
 窓ガラスに衝突した。
 ……。…………?
 「帰さん。儂をここから出せ」
 ………………。
 「すまねえな。生憎俺はお前を脱出させる力を持ち合わせていないんだな。確かに俺は数学が得意だが、数式以外で次元を超す、現実を積分できた経験は一度もないんだな。頼む、他を頼ってくれ、俺からのアドバイスは以上だ」
 そう言って、また帰ろうと出口に向かって振り返ろうとしようとすると、
 あれ? 腰を動かすってどうするんだっけ……。ん? まあいい。取り敢えずは窓から離れよう、と左足を左側へと踏みだそうとするが、踏み出すことはできなかった。
 どうやら、身体の動かし方を忘れてしまったようだ。
 ………………。
 端的に言えば非常にまずい状態。

「俺が動けないのはお前のせいか? ガラスの中の幼女?」
「左様。どうだ? 三次元に閉じ込められた気分は?」
「最高だね。これでレポートを提出する必要がなくなったわけだ。感謝してるぜガラスの中の幼女」
「気付いておらんようだから、これだけは言っておくが、窓の外を見てみい。お主以外はみんな通常通りに動いておるぞ」
 そう言われても眼球すら動かせない程に身体が、否存在そのものが硬直、停止してしまっているので、幼女を見つめながら、その背景にいる、窓の外の、人々の家路に急ぐ様子に気を傾ける。
 確かに、言うとおりに人々は動いている。
 つまり、今、現実世界に精神的に縛られているこの瞬間にも、レポートの提出期限も着々と迫ってきているわけだ。
 ただの不都合だ。
 「頼む。俺をここから出してくれ。お前が俺を閉じ込めているんだったら、お前が俺を解放することだってできるだろう?」
 「勿論。儂はいつかの格好付けのように、ものを閉じ込めることそのものに快感を感じるような嗜虐的な趣味を持ち合わせてはおらん。お主を閉じ込めたいと思って閉じ込めた訳でも勿論ない。お主が儂を無視して去っていこうとしたから已むを得ず、お主に要求を呑んでもらうためにお主を閉じ込めただけだ」
 「わかった。わかったから……。お前話長い割に話が全然進まないよ。つまり、俺は何をすればいいんだ? お互いの解放のために何をすればいいんだ?」
 「儂を解放することに首肯せよ。そして、儂を解放することを心の内に強く念じよ」
 「それだけか?」
 「それだけじゃ。それで儂もお主も解放される」
 「わかった。やってみる」
 ……。
 目の前の幼女を解放してほしい。
 ……。
 相変わらず、目の前の幼女は絵のままだ。そして何より、俺の身体は依然として硬まったままだ。
「おい。お前も俺も動かねえじゃねえかよ」
「弱い。気持ちが入っていない。というより気持ちのベクトルすら、儂を解放したい、という方向へと向かってはいないようじゃの」
 ……。
 ──。
 ━━━━━━━━━━?
 「すまん。もうやってらんねえよ」
 そういうと僕は、目の前のガラスの白い染みを右袖で素早く、シャッと擦った。
 たちまちぐちゃぐちゃになる白い染み。幼げな姿をしていた白い染みが、白い固まりへと変わってしまった。


 いつからだろう。見えないものが見え、聞こえない声が聞こえるようになったのは。その、ガラスの中に幼女の姿を見つける以前から、日常的に誰だかわからない、まさに幼女のような声が聞こえてしまっていた。それは、耳を通して聞こえてくるのではなく、心に響いてくる感じの声だった。
 俺はそれを幻聴だと思ったし、今でも幻だと思っている。こんなこと人に話したら確実に気が変になった、と思われてしまうだろう。だから誰にも相談などはしていない。
 「違うな。お主は相談する相手がおらんだけじゃの」
 図書館からの帰り道、自転車での家路、烏丸通りでの赤信号になった時、先ほどの幼女が僕の横から唐突に声を掛けてきた。
 また、来たよ。
 「なんだ? お前ガラスの中に閉じ込められて動けなかったんじゃなかったのか?」
 「そのあと念じたろうが。声にならない声で」
 「……名前を教えてほしい」
 「儂は神じゃ。だから名前なんてない。お主が付けてよいぞ。神の広い器で儂の命名権をお主に授けてやろう」
 神ねえ。この幼女は神なのかな? 見た目は、化物語に出てくる忍野忍のような金髪幼女そのまんまなだけどな。
 背まである金髪、120センチくらいの小さな体躯。足首まである大人用を無理矢理着せた、トレンチコート。そして、小さな違いといえば、僕から見て右側の頭のトップに、ちょんまげのように髪を束ねていることだった。髪が長いから束ねたあとも垂れ下がっており、そこだけ髪が盛り上がって見える。
 金髪。
 神。
 「金色こんじき神楽かぐら
 ぼそっと口を伝った名前
 「どうだろう? 金色神楽。見た目、本質そのまんまなんだけれども」
 「よかろう。教から儂は金色神楽と名乗ろう」
 目の前の信号が青から赤へと切り替わろうとしていた。おおっと危ない危ない。
 僕は自転車を漕ぎ始める。金色の声は聞こえなくなった。


 「お主に言っておかなければならんことがある」
 僕がコンビニで温かいおでんを手に入れ、あらかじめ予約しておいた炊飯器からあつあつのご飯を茶碗に盛り、さあ待ちに待った、食べよう、いっただきまーす、とまず最初に湯気を立てるぷるぷるの蒟蒻を口に運ぼうとしたまさにそのとき、金色神楽が唐突に述べ始めた。
 構わず蒟蒻を口に運ぶ僕。
 蒟蒻をよく噛んで、飲み込んだあと、今度は話すために口を開けた。
 「なんだ? 神様からのなにかお願いか?」
 「違う。儂に願いなんかあるわけがない。儂がお主の目の前に現れた、その理由についてじゃ」
 「理由?」
 「端的に言うと、こやつじゃ」
 金色が右手に握り拳を作り、右手だけを上に挙げ、ふりふりと二、三回拳を振った。
 すると、金色の拳の中に一枚、何か女性の似顔絵の描かれた、A4用紙くらいの紙が握られていた。
 似顔絵の下には『神崎法子』の文字。
 驚いて一瞬黙ってしまった。
 「ごめん、呆気に取られた」
 「儂は神だからな。何でもできるのじゃ。それより理由のほうじゃ」
 そう言って、似顔絵付きの用紙をふりふりと振る金色。
 いやいや、その人誰なんだよ。
 本当に知らない顔と名前のはずだった。
 「近いうち、この娘『神崎かんざき法子のりこ』は、クラーク記念館の塔の屋上から転落する。そして、それが原因で病院にて死ぬ。簡単に言えば転落死する運命にある」
 クラーク記念館。同志社今出川キャンパスの東端に存在し重要文化財にも指定されている明治初期に建築された荘厳な建物。そして、その塔は同志社の写真としてよく使われる、シンボリックな外装を要している。
 そんなクラーク記念館で飛び降り事故が起こるらしい。
 「つまりな、お主にはこの娘を救ってほしいのじゃ」

☆☆☆
 執筆年月日2015年11月7日。
 つまり統合失調症になる2年半前になります。
 ハッキングされたと思っていたOneDriveにたまたま残っており(学生IDと社会人の後から購入したものはIDが違うはずなのになぜ……?)こうして世に出すことが出来ました。ハッカーのおかげですかね。7年前なので続きはちょっと書けないです。他の小説も発掘出来たら紹介していきます。

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