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【論考:哲学】哲学とは何か?

 2022年8月2日(火)。午後から何もできなくなり早引きした。書かなくていいことかもしれない。分からない。暑さで脳がやられたか、統合失調症なのか、はたまた、ただの甘えなのか。ただのクズという変換が出てきた。そうだ。ただのクズだ。暑さで脳が参っているが、普通の大人なら我慢できる。長いスラックスを汗でぐっしょりにして……いや、嘘は言ってはいけない。職場はガンガンと空調が効いていて、暑さが脳に何かを及ぼしたというわけではないだろう。ただ、目の前の作業が何もできない。「これをしてなんになるんだろう」と思考することも無く、ただぼーっとしていた。座っていた。通勤時は暑さにやられ、駅から職場まで歩かなければいけないので、水分補給は充分すぎるほど気を使っているが、午後になり、ただぼーっと座っている状態が長く続き、これは統合失調症とは関係ないだろうと思いながらも、コーヒーを飲んでも、何をしても動かない両手に、結局甘えと言うべきか、1時間だけ医務室へと向かい、横になった。

 結局、何も回復せず、早引きした。

 もうダメかもしれない。早引きがクセになっている。

 原因は分かっている。ブログのせいだ。ブログで何かを発信し、文章を綴るという、少しだけでも脳みそを使うような行動を毎日やっていると……。

 親が私の部屋に入ってきて「また井上和音か。そんなことより正職員を募集しているサイトを見ろ」と言われた。

 そんなに正職員は大事なのだろうか。パートタイマーで早引きして帰ってきている理由が分からないのか。私に週5日の仕事が続くとでも思っているのだろうか。

 私は普通ではない。思考方法も違うし、統合失調症になってから格段に体力は落ちた。今でも自転車で駅まで行き、電車通勤の高校時代と変わらない生活をしている。歳をとり、大人になればなるほど幼稚になっていると思われるこの性格・脳みそは、結局のところ私がどうしようもないほど精神障害者の正鵠を射ているとしか考えることができない。

 哲学科に行ったのが間違いだったとつくづく思うようになった。大人は実は考えない。「なぜだろう」と疑問を持つときりがない。それより手を動かし汗をかき、社会を回し税金を払い、普通の生活の中に集約されていく。それが大人の大半なのだが、哲学科に行き、考えるための土台そのものを考えてしまい、法学では原因は一つと考えるのが普通なのだが、哲学では様々な方向から、土台の土台の土台まで考えて、結論を出さないのが哲学の最も嫌われる側面だと思う。本当の哲学者は問いだけを残してどこかへ去ってしまうのだ。そして、その問いは、《《人類の新たな可能性》》として、誰かが発掘し、そこでようやく哲学の芽が芽吹く。

 哲学とは可能性を提示するのが本来の役割なのだ。

 法学は結果を提示するのが本来の役割なのだ。

 そして日本は法治国家で間違いが無いために、結果を提示しなければならない。よく考えると、特に因果関係などを深くまで考えると、この逮捕は不当逮捕なのではないか? などと考えてしまうのが哲学だ。そして、常識にすぐに反論したがる、それもまた哲学だ。その結果、世論とは真逆の少数派に属してしまうのもまた哲学だ。特に孤独に独断だけで考える哲学者は、少数派に属して、仲間がいないことに絶望する。よくあることであり、そうなるたびに哲学科などには行かなければよかった、と生物の群衆に入りたがる欲求から真逆の立場に追いやられた孤独な哲学者などはそう嘆く。

 私の場合、哲学を卒業しようとした矢先に統合失調症という、初めは集団ストーカー、スマホの相次ぐ故障、SPIはいいはずなのに面接では絶対に受からないなどを経験し、警察に囲まれそのまま閉鎖病棟へと監禁された過去を持ち、完全に孤独になった。それでも脳内は哲学を忘れようとはしなかった。哲学なんて学ばなければ良かった。法学や商学に行って、公理を絶対のものとして受け入れ、普通に生きていけるような、そんな人生になりたかった。

 哲学とはこういうものだ。哲学者が嫌われる理由も分かっただろう。大半の人は結論を求める。哲学者は可能性だけを提示する。そこの齟齬が哲学者を嫌われ者にする一つの要因だと思われる。

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