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仕事は安定性を重視し、趣味で創造性を重視するのが現代社会

 2022年8月25日(木)。自転車で帰ってきた。暑い。しかし、日の傾き加減が秋の入り口を表しているような、そんな金色の光の中を帰ってきた。

 暑さで脳がきつい。

 脳を冷ましてから書いたほうが良さそうだ。

☆☆☆

 バナナを二本食べて、クーラーを入れたての部屋で20分ほど寝ていた。

 目を空けていたのか、覚えていない。白昼夢なのか、次々と映像や、パソコンに打ち込んでいる文字の羅列などが浮かんできた。疲れすぎていて、もう今日は書けないかと思っていた。

 と、書こうと寝ながら、空中のディスプレイに文字を打ちこんでいた。

 疲れた。

 昨日は休みだったので、休み明けの出勤。外は暑いし、昼ご飯はおにぎりと卵サンドだけだし、エネルギーが足りていない。

 仕事中に、小休憩を入れることが許されている。もちろん申告制。今日は早めに午後の小休憩をとった。スマホを見るとかは倫理的にしない。ただ休憩室に行ってコーヒーと一本満足を食べながらぼーっとするだけだ。

 そのときも白昼夢を見た。寝ていたわけではないので、目を開いたまま、目の前の情景からくる光の反射よりも、脳内で勝手に創られた映像をぼーっと見ていた。もちろんそれが白昼夢だとは気付かない。しかし、脳内で創られた白昼夢はYouTubeで、この前見た映像だった。

 友人がゲストとして出ているYouTubeの映像だった。

 声は聞こえないが、自由そうに何かを話している。

 現実の光を視認したときに苦笑した。友人を羨ましいとでも脳内の無意識の領域で思ったりしていたのだろうか。

 確かに、私の仕事は《《私にとっては》》きつい。だが、普通の人からしたら「何と楽で短時間で、空調の効いた部屋で、責任も何もない夢のような仕事ではないか」と思われると思う。ぽつぽつとチェック作業を延々とやっていればいいのだ。

 時給制だから給料は安いけれど。

 非採用日があるから、給料が安いのだけれど。それでも、そのおかげで精神科や耳鼻科に自由に行くことが出来ているのだけれども。私にとってはそれでも、限界レベルで充分にきつい。

 精神科で、背筋を伸ばしてパソコンの画面をじっと見続けている人などを見ると私とは住んでいる世界が違うのだなと思ったりする。

 障害者だから雇ってもらえているのは自覚しているし、周囲も環境を整えてくれている。チェック作業を延々とやっているのは、それがきついけれど能力が無くともやれる仕事だからだ。普通の人でもきついけれど、長さが違う。普通の人はそれを10時間くらいぶっ通してやる。我慢の力がまず違うのだと自覚する。

 こうやって仕事に復帰すると「余計なことはしないほうがいい」というのを身に染みて感じる。今ある現状をいかに守っていくか、そのことの管理だけで充分な労力を割くことが人間には求められているように感じる。

 というか、それが全てのように感じる。創造性以上に安定性を保つほうが人間はよっぽど疲れる。私は安定性を保つ人間を「システム化された人間」と哲学科時代に考えていたことがあり、創造性をポンポンと生み出す方が人間らしい生き方ではないかと思ったことがある。

 しかし残念。社会に求められる人間は安定感がいかにあるかのほうに重点を置かれる。社会が既に法などでシステム化しているために、安定してパフォーマンスを発揮できる人間のほうが《《仕事として》》向いている。

 ポンポンと創造的なことを出すのは現代では趣味でいい。たまにツイッターなどに写真をあげていいねをたくさんもらう。これで利益は出ないし、瞬間的な出来事なので、完全に趣味のものとして認識される。

 仕事は安定性をいかに保つか。
 趣味はいかに創造性を発揮し、誰も見たことのないものを創るか。

 その違いかなと思った。
 明日も仕事なのではよ寝る。

 文章しか打たないブログを創ったのは、パートタイマーでも自分がいかに疲れていても安定して記事が出せるようにしたためだったのだな、と昔の自分の考えに気が付いた。

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