関東経済産業局 太田局長のメルマガに載せていただきました。

社長の独り言リレーNo.30

父の日に贈る。
昨日の井上さんのお話に続き、本日はアナザー井上さんのお話。株式会社井上鉄工所 代表取締役 井上 裕子さんの独り言です。
父子鷹(父と娘)の物語。

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人生って何が起こるか分からない

55歳になりました。シングルマザーで息子2人を育て15年近くが経ちます。その間、父の会社を継承し、社長という役を頂きました。(その前の人生は4月27日の日経「交遊抄」において東京国立近代美術館長の小松弥生さんのご紹介により詳らかになっています。)今までの人生、あまりにもがむしゃらで、がさつで、思慮を欠いた判断や行動も少なくなかったのは自覚しています。そして最近になって漸く、幼少の頃から絶え間なく、多くの「応援」と「支援」を頂いていることを自覚するようになりました。

中学生の頃、試合や定期テストの前に眠れずにいると、父が「明日の朝、死んでしまって目覚めなくても後悔しない1日を過ごせば、すぐに眠れる。」という言葉をかけてくれました。父は横になると3息くらいでぐーぐー眠るので不思議で聞いてみたのでした。
父は、猛烈に働く、熱心に研究する、人一倍思い切って遊ぶ、怪物のような人です。貧しくて高校は浦和高校の夜間部へ進学、日中は日本デイゼル工業で働き、夕方から学校へ行って、夜中までバトミントンの部活に励んでいたとのこと。そこかしこでリーダーシップを振るった父ですが、高校2年生で無理がたたり、結核に倒れ、1年間の入院生活を送りました。思い通りに身体が動く同級生が「妬ましかった」そうです。もし、学業を進めることが出来たのなら、冴える頭脳と誠実さでもっともっと広い世界で活躍した人材だったかもしれません。娘の私がいうのもなんですが。

そんな父がいつも言っていたのは「学校は友達を作りに行くところ」「自学自習。一生、勉強。」「女性と男性の差は腕力だけ。女性の方が優秀」。全く学習意欲がなく、ソフトボールに明け暮れる私に苛立つ母を「本人がやる気にならなければ、何を言ってもダメ」と諌めてくれたのでした。(あまり期待されていなかった?)

父は、5歳くらいの時、疎開先の海岸で戦闘機から雨の様な銃撃を受けて、自分の父(私の祖父)と命がけで逃げた経験もある人です。末娘である私の母には長年夫から暴力を受け続けた母(私の祖母)がおり、母から「自分が結婚して家を出て1人だけ幸せにはなれない、母を引き取りたい」という願いを聞いた父は、母方の親戚を説得し、祖母を引き取りました。父が祖母を引き取ると申し出た時には兄貴達に「生意気だ。出しゃばるな!」と殴られたそうです。
私は「戦争を生き抜いた真に優しい人」に育てられました。14歳の春、その祖母が「博文さんは自分の息子の様に思っていました。ありがとうございました。」と、死に際に囁いたのを知っています。

父は、正義をきちんと言葉で伝えることができ、態度でも示せる人です。
人に聞いて、近道するな。本を読め。友達を作れ。文武両道。自分で決めろ。失敗しなければ成長しない。リーダーシップを取れ。
スキー、スケート、将棋、麻雀、野球、バトミントン、ゴルフ、私が大人になって体調を崩した時には囲碁の相手もしてくれました。(ゴルフは年に2回くらい、もう20年近く。ドライバーはずっと私の方が飛ぶので本気で悔しがる父。)

母は流産を何度も繰り返す体質で、私は母が200日に及ぶ入院、300本以上の注射を乗り越え、熱望されて生まれてきました。「そんな子供はきっと上手く育たたないから堕胎する様に」とすすめる祖母を振り切り、今では差別用語ですが「カタワでもいい」と覚悟を決めていた両親。産まれた瞬間、父は「全部ありますか?」と聞いたそうです。そんな愛娘の16歳での(決めたのは15歳)アメリカ行き(1985年、大阪日航機墜落事故より2日後)を認め、応援してくれた両親がいて、今の私がいます。大学の卒業式にアメリカの高校時代から6年間も自分の娘同然に面倒見てくれたホストファミリーと親友のチームメイト、日本から両親が出席してくれました。両親が2組いるなんてなんて幸せ者でしょうか。

ものづくりなでしこの活動を通じて故安倍首相と何度もお会いする機会がありましたし、NHK日曜討論への出演もありました。「ちょっとは親孝行になるかな?」と思い、父に言ってみたら「心配でしかない!」とバッサリ。交遊抄の記事(埼玉県教育委員会の委員)についても意に介さず。色々と大役へ引き立てて頂いていますが、どれも大して関心がない素振りで、意見交換をして終わりです。そこには「のぼせるなよ。謙虚であれ。」とのサイレントメッセージを感じるのでした。

最近は年齢のせいか少々闘病していますが、父らしく乗り越えていくのでしょう。労り合う両親を乗せて、通院の送り迎えをする時間は不思議と穏やかで、蜂の巣を突いたような忙しい私の毎日の中に割り込んできても平気な時間となっています。
ゲーム依存、鬱病、睡眠障害、適応障害などを抱えた2人の息子たち(父の孫たち)は、親身に支えてもらい、なんとか乗り越えて、自分で考えて、行動するということはしっかり身についてきました。今後は各々が自分を磨いてゆけば大丈夫だと思います。
母は可愛らしく認知症が進み、好き勝手が許される老後でこちらも上出来です。

会社が上手くいかない時に不安になるけれど、父は「一生懸命働けば生活に困ることはない」と言ってくれました。上手に出来なくても、私は「一生懸命働く」ことは出来ます。父に付いてきてくれた社員もまだまだ頑張っています。みんなを守るのが私の役目です。「一生懸命働く」を続けて行った先に「何が起こるかわからない」人生も受け入れて楽しんでいきたいです。

こうして、多くの皆様とお知り合いになれたのも、きっと未来の課題から「裕子!頑張れ!助けに来てくれ!」と呼ばれているのだと思っています。

執筆を依頼されて、1年半もすっとぼけてきました。挙げ句の果てに、取り留めない文章で、太田局長、ごめんなさい。お詫びに一杯行きましょう!

株式会社井上鉄工所 代表取締役 井上 裕子

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