見出し画像

高学年で読み書きの困難の相談を受けた時心掛けていること

「低学年で読み書きの困難の相談を受けた時心掛けていること」
をつらつらと書いたら、「高学年は?」というご質問を複数いただいたので、
書いてみたいと思います。

低学年で相談を受けた時のことは、以下にあります(*^◯^*)

さて、高学年。

「低学年で読み書きの相談が上がってくるは、
苦手さが大きいケースだということが予想される」
と前回書きました。
これは、あくまでも私の主観的なものです^^;

しかし、高学年で相談が上がってくるケースに対しては、
主観ではなく、間違いなく言えることがあります。

それは、
・その子はぼろぼろに傷付いている
ということです。

学校というのは、学習する場所です。
そして、現在の学習の多くの場面では、
・読むことで情報にアクセスし
・書くことで評価を受ける
ことが求められます。

つまり、毎日、ほとんどの時間で、
・うまくいかない
・スムーズにできない
という体験を積み重ねてきているのです。

よく研修の機会に最初に話すのですが、
私は、昔から太っていて、体育が大の苦手でした。
中でも鉄棒は最悪で、どんなに頑張っても、
何一つみんなと同じようにはできませんでした。

逆上がりを例に挙げます。
私、先生の言ってることは全部わかるんです。
・このくらい幅を開けて
・こう鉄棒を握って
・こんなふうに地面を蹴って
・体をこう鉄棒に巻き付けて
などなど。
先生の話は全部わかります。
くるくる回っている友達の姿もじっとみていて、
イメージもバッチリです。
「よし、今度こそ」と思って鉄棒を握って
先生の言葉を一つ一つ思い出しながら確認して
思いっきり地面を蹴る
でも、私の体は鉄棒を回っていきません。

太っているからと言って仕舞えばそれまでなんですが、
当時、私より体の大きい子でも、
回れる子はいました。

みんなができるのに私だけができない。

そうなると、悪いのは「私」問題があるのは「私」になっていきます。
先生も、みんなも、誰より私自身もそう感じていました。

昭和ですから、「放課後残って練習しなさい」と言われれば、
やるしかありません。
重い気持ちで鉄棒までいき、
先生の言葉を思い出し
友達の姿を思い出し
「お願いだから」と祈るような気持ちで地面を蹴ります。
でも、やはり体は地面に落ちていくのです。
砂をはらって、また鉄棒を握る。
私、わかってるんです。
次もきっと回れない。
でも、みんなができること。
先生の指導でできるのが「当たり前」のこと。
できないのは私だけで、それはきっと私が悪いから。
だかられ練習するしかないんだと。

くすくす笑いながら通り過ぎていく同級生の顔も、
あの時の鉄棒のサビがついた手の匂いも、
今も鮮明に思い出せます。
やってもやってもできない。
どうしていいのかわからない気持ち。

次の体育。
もちろん私は回れません。
そんな私をみて先生は、
「練習したのか!!」と。
しましたよ。
誰よりも。
でも、私は反論できませんでした。
だって「できない」はそのままだったから。
「できない」のは「自分が悪い」のだと思っていたから。

解決策の見えない中、
やってもやってもできない体験を積み重ねる。
学校が「できない自分」を突きつけてくる。

本当に辛い時間でした。

でも、私の鉄棒は、しばらくすると「終わり」があります。

しかし、読むことや書くことに困難を持つ子たちはどうでしょう?
毎日、多くの時間で、私が鉄棒の学習の時に感じていた絶望感を
感じ続けているのではないでしょうか?

みんなが
当たり前にできて
できるのが前提で毎日が進む。

一人ポツンと、
「まだできない」
の中にいることの苦しさは、
どれほどのものでしょう。

ああああ、本題に入る前にもう1500字近い。
やばい。
すみません、思いつくままに書いているもので、読みにくいですよね😭

ただ、「高学年での読み書きの困難の相談」というのは、
この「積み重なっていく苦しさ」の上に
何年もいた子たちのことだということをまずは理解しておかないといけないと思います。

子供達が言葉にできない思いを、
成人した当事者の人が語ってくれています。
私の夫も重篤なディスレクシアであり、
当時のことをことをたくさん語ってくれました。
よかったら、こちらも手に取ってみてください。

さて、
・ぼろぼろに傷付いてきている
という前提に立って、
「何ができるか」を考えるわけですが、

ここまでの道のりの中で、多くのケースが
・学習に投げやりになっていたり
・読むことや書くことへの拒否感が強くなっていたり
・どうせできないと無気力になっていたり
します。

善意であっても
・苦手なことだからスモールステップで
・簡単なものなら取り組めるかも
のアプローチは、かえってそうした姿勢を
頑なにしてしまうことがあります。

以前、こんなケースに出会いました。

・6年生で、1年生の漢字も入っていない状態
・1年生の漢字なら、画数も少なく易しいから取り組めるはずと、毎年4月には1年生の漢字ドリルを渡されていた

実際、1年のドリルは彼にとって踏むことの可能なステップでした。
でも、彼がいたいのは、「自分の学年」なんです。
目の前のステップは彼が踏むことが可能なものでしたが、
登っても登ってもいたい場所がどんどん遠くなる。
それは本当に有効なスモールステップなんでしょうか?


実際、彼は、その踏むことが可能はずのステップを
踏む気力もなくしていたのです。

困難が大きければ大きいほど、
「できない」を感じていた時間が長ければ長いほど、
スモールステップは、「最後の一段」だと思っています。
たっぷり補って、
その子がいたい場所に立つための一段をスモールステップにすることが
大切だと思います。

6年生のその子にとっては、1年生のドリルができても、
「やった!」という達成感も喜びも感じられなかったのだと思います。
そこにあるのは、
・これしかできない自分
・あそこにいけない自分
という辛い気づきだったのではないかと。

だからこそ、
・たっぷり補って
・やりたいことが「できた」を実感できる
が大事だと思います。

具体的に心がけているのは、
・調べる手立てを持たせる
・参照して解決する体験を支える
・その子にとって可能な読み書きの方法を一緒に探る
・「好きなこと」を軸にスキルの獲得を目指す
・納得するまでは個別の場での取り組みを中心に行う

あたりでしょうか。

上二つの項目に共通するのが、
「覚える」「できる」を前提にしないことです。
どうしても学校での学習って
・覚えた知識を使う
・できるようになった方法を使う
ことが前提になりがちです。

たとえば、
掛け算の筆算で解決する問題をイメージしてください。
「580円の入場料を32人が払います。全部でいくらでしょう」
みたいな問題。
・九九を覚えている前提
・掛け算の筆算のやり方が身についている前提
・ミスなく手順通りに書いて正解が出せる前提
があますよね。

ということは
・九九を覚えていない子も
・筆算のやり方が不確かな子も
・繰り上がりを小さく書けなくて、ミスしてしまう子も
正解にはたどり着けません。

前提が「覚えている」「できる」のままだと、
その子たちは「間違え続ける」しか選択肢がなくなってしまいます。

かといって、
「この子がこの学習に参加するためには九九を覚えてないとダメだから、
 4年生だけど2年生の九九のプリントをしよう」
「繰り上がりを小さく書く練習をしよう」
は、苦手な子たちにとって苦手な学習を苦手な方法でやるわけですから
道のりは遠く、なかなか「今の学習への参加を支える」に至りません。

でも、
・九九表があったら?
・繰り上がりを書くスペースが色分けされている用紙があったら?
どうでしょう。

こういうことを提案すると
「そんなことしてたらもっとできなくなるんじゃないか」と言われることがあります。

私はそれは違うと思っていますし、実感もしています。

どうしていいかわからない状態を重ねるより、
たっぷりヒントがある状態でも解決する体験を重ねていく方が、
学習量も学習参加も保証することができ、
結果として力をつけていき、手立てが必要と無くなっていくこと、
本当にたくさんあります。

例えばこれもそう。

読むことや書くことの困難を抱えたまま高学年になったケースには、
特にこの考え方が必要だと感じています。

・読めない→読めるように練習
・書けない→書けるように練習

ではなく、
・読めないその子が「今」読むためには何が必要か
・書けないその子が「今」書くために何が必要か

だと思うんです。
特に高学年になっていると、
今まで散々苦手なことを苦手な方法で練習してきて、
疲れ切っていたり、絶望したりしていることが予想されます。

かつて出会った4年生のBさんは、
丁寧に早く漢字練習帳を埋めることできたものの、
それらの文字を音に繋げていくことがとても難しく、
みんなと同じ練習方法では、
やってもやっても覚えられないが続いていました。
これだけ真面目に練習しているのにできないということは、
この子は能力的に漢字の習得が難しいのだろうと、
周囲も本人も思っていたんです。
個別指導を行うことになって本人と初めて話した日、
「先生、もう無理・・・」と虚な目で呟いた姿が、
今も忘れられません。

BさんにはBさんの学習方法が必要でした。
それは、みんなと同じ方法ではなかった。
みんながこの方法でできているのだから、できて当たり前。
という「前提」にBさんは追い詰められていたのです。

大事なのは、「学び方が違う」というマインド。

みんながそれでできるのだから、
・同じ方法で
・同じように
と思いがちです。
確かに、多数の子にとって有効な手立て手であるからこそ続いてきたものも
たくさんあるでしょう。
でも、それではうまくいかない子がいた時、
「問題は子供の側にある」としてしまうのは、とても危険だと感じています。

「同じ方法では学びにくい子」がいるという意識を支援者側が強く持ち、
「この子にあった方法」を探り、
試して、比べて、調整していく
ことがとても大切です。

あああ、また延々と脱線を・・・
すみません。

「調べて解決」は本当に大切です。
大人になるとむしろ、「ちゃんと調べて確実に」が求められますよね。

かつては「調べる」こと自体が、とても大変でした。
小さな文字がびっしり隙間なく並んだ国語辞典を使いこなすことができなくて困っていた子、たくさんいましたよね?
デジタルなら、「調べたいこと」へのアクセスが本当に容易になります。

これなんてとてもおすすめです(*^◯^*)

デジタルネイティブの子供達は、
日常から知りたいことをどんどん検索しています。
それって本当に大切な力ですよね。

ところが、「楽をしているんじゃないか」と渋い顔をされることがあります。
「楽」、ダメですか?
調べる苦労が目的ではないはずでは?と思ってしまいます。
もちろん、苦労して調べていくことに価値がないとは言いませんし、
その道程で新しい気づきに出会うことがあることもわかります。
でも、そもそも「同じ方法では学びにくい子」たちの場合、
そうした体験から得られるものにたどり着けないということも、
意識しておく必要があると思います。


まずは「自分でできた」を実感できる体験が大事です。

ルビがあれば読めるのであれば、ルビをつける(大人の字で)
スラッシュがあれば読めるのであればスラッシュをつける
音があれば読めるのであれは、音をつける

方法を手渡して「今できる」を支えていくことからだと、
強く感じています。

まずは、教科書から

低学年の回でも紹介した、これが使いやすいですが、

あえて「高学年」であれば、学習者用デジタル教科書をお勧めしたいです。

というのは、「音声付き教科書」は、現状、国語・社会にのみ提供されます。
中学での情報量の膨大さを考えると、他教科でも使いたいケースがあると思いますし、学年的に端末を使うスキルも習得しやすくなっていると思うので。
画面に入力したり、スクリーンショットを撮ったりすることも容易になるので、書くことの負担軽減ができるのも魅力です。

教科書に音が必要な子は、プリントにもドリルにも音が必要です。
低学年の回では、まずは大人がたっぷり手をかけてそこを支えることを推奨していますが、
高学年は「自分で解決できる」プロセスを身につけていくことが自信に繋がります。
ですから、この辺が大事。

もちろん、テストなど、事前に用意しておけるものであれば、
以下のような準備も大事です。

ただ、こうしたテストの実施が可能になるためには、
「この形で取り組めるスキル」が身についている必要があります。
そこで重要なのが、

納得するまでは個別の場での取り組みを中心に行う

なんですよね。

学年が上がるほど、
「みんなと違う方法は嫌だ」
と拒否する子が増えます。

なんとか力になりたいと思っている先生たちから、
「彼女には必要な方法だと思うんですが・・・」
「本人に支援を断られて手が出せません」
そんな声を聞くことも少なくありません。

自分にとって有益なのになぜ?

という疑問、わかります。
個人的には、そこには2つ問題があると思っています。

①自分が困っていることに気づいていない

支援を受けたことがない状態だと、
それが「当たり前」になっていて、
他の子も自分と同じ中で頑張っていると感じているんですよね。

例えば、感覚の過敏さの課題がある場合、
・自分の見え方や聞こえ方、感じ方を共有することは難しい
・同じように人の見え方や聞こえ方や感じ方を知る機会もない
そうすると、無意識に
・みんなと自分は同じように感じている(見えている・聞こえている)
が前提になるんですよ。

ざわざわした中にいると、大事な話が聞き取れなくなる子は、
「みんなも自分と同じなのにちゃんと聞いている」
と理解してしまうことがあります。
で、
「自分は集中力がない。ダメなんだ」
と落ち込んでいく。
人と違う感覚で「困っている自分」ではなく、
能力ややる気に課題がある「ダメな自分」だと思ってしまうんです。

その状況だと、
「これ使ってみない?」
「これやってみようよ」
と言われても
「いいです」
「大丈夫です」
と言ってしまう。

「大丈夫な状態を知らない」からこそ「大丈夫です」と言ってしまう。

そんなことが起こります。

岡耕平先生が、かつて連載されていた記事の中で、

ここであらためて強調したいのは、生徒は「有効な支援を得て初めて自分に支援が必要だったとわかる」ということだ

と書いておられましたが、本当にその通りだと思います。
体験してみて初めて
「あっ、これならわかる」
「えっ、みんなこんなに楽だったの?」
に気づくケースはたくさんあります。

岡先生のこの言葉が載っているのはこちら。

この連載はどれもめっちゃ勉強になりますので、
4月号から読んでほしい!!
タイトルは「どうする? どうなる? 高校通級」だけど、
高校通級に限らず考えさせられることばかりです。

こうした「困っている自分」に気づかないまま
学習上の困難を重ねていると、さらに以下のような課題が出てきます。

②自分はみんなより劣っているから違う方法を提案されたと感じてしまう

私の夫は重度のディスレクシアです。
彼がかつてこんなことを話していました。

「自分は人より劣っているるからみんなと同じ方法でできないんだと思っていた頃は、絶対人前でその方法は選べなかった。「こうすればできるよ」と言われても、もしかして「あいつ、こんなこともできないんだ」と笑われるかもしれないと思うと、怖くて絶対できなかった。恥ずかしくてたまらないもの。そんな思いをするくらいなら、やらない。できないままでいい。「怠け者」「やる気がない」と思われる方がずっといい」

「みんなと違う方法を拒否する」子供達の中にも、
かつての彼と同じ思いがあるのかもしれません。

でも、彼は変わりました。

「劣っているからみんなと違う方法が必要なのではなく、
自分の力を発揮するためにこの方法が必要なんだと納得できてからは、
何も恥ずかしくなくなった。」

今はそう話しています。

この、
・自分の学び方への納得と誇り
は、
まずは個別の場での体験がとても重要です。
たっぷり安心して試せる場で体験し、
それを使えるスキルをつけたことで、
「みんなの中でもこの方法を使いたい」
と本人が思えることが、とても重要だと感じています。

この記事の彼女もそうでした。

本格的な介入は中学になってからでしたので、
本当に辛い状況でした。
スタートは家庭学習という個別の場への介入。
そこで「音があれば自分は理解できる」という体験を積んでいきます。
その積み上げの中で
「学校のテストにも音をつけてほしい」と自ら申し出てくれました。

中学という多感な時期に、
「みんなと明らかに違う方法」を申し出るというのは、
とても勇気のいる行為だと思います。
でも、「自分の力を発揮するにはこれが必要なんだ」という
納得と誇りが、彼女を動かしたと感じています。

学年が上がれば上がるほど、
そうした本人の納得と自分でできるスキルなしに
集団の中で「みんなとは違う学び方」を成立させていくことは
難しくなると思います。

それなしに「この方法はあなたに必要だから」と導入することは、
どんなにその子に合っていても「プラスαの負担」になりかねません。

私たちが授業を聞いて大切なことをメモしたり、
必要な情報を文章から探し出したり、
書いて考えを整理したりできるのは、
それらが負荷の少ないオートの手立てになっているからこそできることです。

どんなにその子に必要なてだてでも、
それが「方法として機能する」前に授業に持ち込めば、
その方法を使うための負荷が必ずかかります。
そうなると、苦手でも今までやってきた
「みんなと同じ方法」の方がいいと感じて使わなくなることがあります。

その子にとって大事な方法だからこそ、
そうした乱暴な導入をせず、
ちゃんと「これは自分に必要」「これを使いたい」というところまでは、
たっぷり「個別の場での体験」が重要なんですよね。

そして、そうした「必要な体験」を重ねる上で大事なのが、

「好きなこと」を軸にスキルの獲得を目指す

なんです。

簡単に言えば、
・読みたいものを読み上げる体験
・書きたいものを入力する体験
を仕掛けるということです。

・読みたいものだから読めると嬉しい→継続できる→定着に向かえる
・書きたいものだから書けると嬉しい→継続できる→定着に向かえる

だと思います。

「学ぶ」って、本来とても楽しいことですが、
たくさんの苦しい思いをしてきた子たちは、
まずは「スキの力」を借りることで、
「学び」にアクセスできるスキルを身につけていくことがスムーズになると感じています。

あああああ、やばい。
8千字近くになってしまった・・・。

書きたいことを書きたいように書いてるので毎度まとまりがなくてすみません😭

もっと書きたいことがあるんですが、
流石に今回はこの辺にしておきます(^_^;)

「高学年からの介入」だからこそ、
本人の納得と誇りを大切に、
これからも、できることを組み立てていきたいと思います。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?