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シェアハウスで感じるゆるやかな孤独のその先

人と一緒にいるのに感じる孤独の話をしたい。

ソーシャルアパートメントというシェアハウスに住み始めて1年以上が経つ。ここに住み始めたことで、一人暮らしのときに感じていた「人とつながりたい」という種類の孤独は、それほど感じなくなった。

一方で、人とつながることで生まれる孤独を感じるようになった。それはたとえば次のようなものだ。

住み始めてから年月が経ち、シェアハウス暮らしにも終わりが見え始めてきた。すると考え始める。こうして毎日仲良くしているみんなと、退去したあとも会い続けることができるのだろうか、と。

そうした人は実は少ないのかもしれないな、と気づく。学校と同じだ。学校に通っているあいだは、みんなと仲良くしているけれど、卒業してからも会い続ける人は限られた仲の良い人だけになる。シェアハウスもそういう性質の場所だってことを、最近よく思うようになった。

僕がいま感じているのは、たとえばこうした種類の孤独だ。

シェアハウスにあるそれぞれの孤独

もっと長く住んでいる人の場合はどうだろう。仲の良かった人たちはみんな退去してしまい、いつの間にか馴染みの薄い人が増えている。気づけば自然とラウンジに行く頻度が減り、そろそろ出るタイミングかな、と考えるようになる。

深い交流をしてきた人ほどこうした感覚を持ちやすいのかもしれない。

あるいは、まだ引っ越して間もない人の場合。ラウンジでみんなとごはんを食べ、酒を飲み交わし、毎日が楽しい。だけど、まだ家の外で遊んだりすることはないし、あくまでもルームメイト。仲の良い友達になるにはまだ距離がある。

シェアハウスという場が、家で気軽に飲んだり、食べたりできるからこそ生まれる孤独なのだろう。

あるいは、交流をしない選択をした人の場合。当初は交流したいと考えていたけれど、億劫だったり、雰囲気が合わなかったり、機会を逃したり、そのほかいろいろな理由でラウンジに降りないことを選んだ。それでも、本当は今からでも仲良くなりたいと思っている人だっているかもしれない。

こうした孤独は、いずれも人とつながることで生まれたものだ。

たくさんの友人がいたって、恋人がいたって、家族がいたって、孤独は襲ってくる。

孤立しているわけではないし、つながりだってある。だけど孤独を感じている。

いわば、ゆるやかな孤独。

進化心理学によれば、孤独は人間がまだ狩りをしていた頃、危機回避のためのアラート機能として備わっていたもの、ということらしい。だから孤独は「心が痛い」と感じるようにできている。

そんな話を聞くと、孤独からはどこまでいっても逃れられないな、と軽く絶望してしまう。

人間であることの宿命として、孤独を抱えて生きていくしかないのだ。
だから考え方を変えてみることにした。

ゆるやかな孤独を肯定しよう。ゆるやかな孤独と共存して生きていこう。

ゆるやかな孤独は良い思い出に変わる

ゆるやかな孤独なら、そう悪いものでもないかもしれない。

たとえば僕の場合、孤独を感じているときの方が、文章を書くことができる。孤独が芸術を生んできたという話は耳にするけど、実際にそうなのだ。孤独は人をクリエイティブにする。こうなるとむしろ、人にはほどほどの孤独があった方がいいのだろう。

そしてゆるやかな孤独と共存していくためには、より大きな孤独に飲み込まれてしまわないようなシステムを築くことが必要だ。より大きな孤独は、たとえばコミュニティから断絶された社会的孤立のような状態であったり、家族以外とのつながりが希薄な状態であったりすることをイメージしている。

こうした大きな孤独に陥らないようなシステムを、自分なりに築いていく必要がある。たとえばこの家で言うならば、シェアハウスを出たあともつながるコミュニティをつくるのは良い方法だろう。

人とのつながりがあるシェアハウスだから生まれる、ゆるやかな孤独。それが大きな孤独と隣り合わせでなければ、それほど悪いものじゃない。

シェアハウスを出たあと二度と会えなくなる人がいたとしても、仲の良い数人の友人は残るかもしれない。シェアハウスで深い仲を築くことができなかったとしても、かえって自分に合うコミュニティが理解でき、もっと自分に合う場所に出会えるかもしれない。

シェアハウスに住んでいたことがはるか昔になったとき、思い出すのは、ラウンジで酒を飲んだり、カラオケに行ったり、フェスやキャンプで遠出したりした楽しい日々であって欲しい。

ゆるやかな孤独は良い思い出となり、その先に人との深いつながりが生まれ、愛や友情を築いていく。

今はそんな日々を噛み締めながら、限りある時間を暮らしていきたい。

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