30代半ばだけど、孤独なときの行動が『ライ麦畑でつかまえて』と同じ
強い孤独を感じたとき、誰でも良いから会いたいと思っていろんな人にLINEしてしまうことがある。それも最近よく会う友達というより、昔会っていた友達や仲良くしていた女の子とか。
こういう場合、だいたい異性の方が多い。結局のところ、恋と愛とか、それ未満の性欲とかそういったものが孤独を埋めるのに手っ取り早いからだ。
だけどそうして会った人と自分が望んでいたような会話ができず、かえって気が滅入ってしまい、会ったことを後悔したりする。
こんなことを30代半ばにもなってしてしまうなんて……と思って落ち込むが、孤独を感じやすい人というのはそういう性質なので、そんな自分を認めた上で生きていけばいいかと思っている。
前向きに考えると、30代半ばにもなって『ライ麦畑でつかまえて』(村上春樹訳verなので『キャッチャー・イン・ザ・ライ』だけど)を再読して、「めっちゃわかる……」と共感してしまえるのもある意味幸運かもしれない。
心の奥のホールデンが顔を出すとき
主人公のホールデン・コールフィールドは高校を退学処分になり、クラスメイトや教師たちの「インチキ」な振る舞いにうんざりして、寮を飛び出す。そして電話ボックスでかつて会ったことのある女の子たちに電話をかけたり、夜のニューヨークに繰り出して、バーに行ったり、しまいにはホテルに成り行きで娼婦を呼んだりする。
ホールデンは孤独を抱えて街を彷徨う。その過程でかつて好意があった女の子やら、電車で同席していた女性やら、娼婦やらと会話をするが、ホールデンが求める会話ができる人はひとりもおらず、みんな「インチキ」な会話ばかりで、そのたび気が滅入ってしまう。
ホールデンのいう「インチキ」な振る舞いというのは、社会に適応してうまく振る舞うための社交性のようなもの。ホールデンはそんなインチキさが我慢できない。
僕が共感したのはこのあたりだ。孤独なときに誰彼構わず、連絡したり、話したりするのもそうだし、気が合わない人と会話して、気が滅入ってしまうようなこともそうだ。
30代なのでさすがに社会との折り合いをつけてコミュニケーションはとれていると思いたいが、強い孤独を感じているときにそんな会話をすると、相手への興味がゼロかマイナスになって、一刻も早くこの場を立ち去りたいとなることはある。
人間の性質というのは、どれだけ歳をとろうがそうそう変わるものでない、と思っている。心の奥にホールデンを抱えているタイプの人間というのは、大人になってもやっぱりホールデンが顔を出すのだ。
だから僕は、同じように心の奥にホールデンが居座っているタイプの人が、気が合うし、好きだなと思う。
それにしても70年前に書かれたアメリカの少年の話を読んでも、少しも古さを感じないどころか、「自分のことが書かれてる!」なんて思えるのは、さすが名作だなと実感。
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