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元引きこもりだけど共感を諦めたくない。「あ、共感とかじゃなくて。」展を見て

先日まで東京都現代美術館で開催されていた「あ、共感とかじゃなくて。」展。「共感」をテーマに5つの作品がキュレーションされて展示されていた。

展示自体は「共感」について考えさせる内容になっていて非常に良かった。ただ、展示のタイトルが共感を否定しているように思えて違和感を感じていた。もちろん、安易な共感はときに相手を傷つけることになる、ということは理解できるのだけど。SNSでの安易な共感へのアンチテーゼ的なテーマで、こういうタイトルが選ばれたのだろうか。

安易な共感が暴力となるのはどんなときだろう。例えば、マイノリティに対する当事者でない者からの共感。性別、人種、性向などの違いがある場合、100%理解することなどできないだろう。マジョリティによるマイノリティの理解が微妙に間違っていたとしても、その解釈が正しいものとして一気に広まってしまうかもしれない。それはたしかに暴力だ。

「簡単に分かった気にならないで」と言いたくなるのも理解できる。

だが、そうした状況が発生するのは、「あなたのことをわかりたい」と思っている人がいるからこそだ。わかりたいと思ってくれる人がいることは、救いだ。間違った解釈をする人はいるだろうが、正しい解釈する人だっている。そこから共感による連帯を築くことだってできるだろう。

では、「あなたのことをわかりたい」と思ってくれる人すらいない人間がいることを考えたことはあるだろうか。

誰も共感しようとすらしない透明化された人たちの圧倒的孤独

例えばそれは弱者男性のような透明化された人たちだ。誰も積極的に自分を「わかろうと」なんてしてはくれない。それは圧倒的な孤独だ。わかること、わかられること、その相互の関係性から排除された人を救うのは、それでもわかろうとしてくれる人だろう。

その一歩を踏み込むのは友人や恋人ではなく福祉などの制度のつながりかもしれない。そうだったとしても、共感するということは否定されるべきではないし、共感する意思は救いとなりうる。

前述した、弱者男性のような、透明化された人たちという当事者性のある作品を展示してた作家がいた。元引きこもりの作家・渡辺篤さんだ。

その中に引きこもりの人たちの部屋の写真を集めた作品「アイムヒア プロジェクト」があった。この作品を見たとき、この引きこもりの当事者一人ひとりはきっと、自分のことをわかって欲しいと思っているだろうなと感じた。「共感されたい」というメッセージが込められた作品だ、と感じた。

元引きこもりの僕は、共感という救いを求めていた

僕自身の話をすると、僕はある時期1年間ほどほぼ引きこもっていたことがある。そのときはもちろん恋人もいなかったし、家族や友人にも会わなくなって、つながりはどんどん希薄になっていった。社会から断絶されているような気持ちだった。圧倒的に孤独だった。

あの頃の僕が求めていたのは、他人とのつながりであり、他人が自分の中に踏み込んできて「わかるよ」と言ってくれることだったように思える。そんな救いを求めていた。だが透明化されていた僕にそんな奇跡は起こるはずもなく、孤独は深まるばかりだった。

そんな状態を経験した僕からすると、渡辺篤さんの作品は「共感への願い」だと感じたし、別作品のコロナ禍に部屋や街から見上げた月の写真を集めた作品にも同様の願いを感じた。

また、最後に展示されていた中島伽耶子さんの黄色い壁を隔てて言葉以外のコミュニケーションをとることができる作品「we are talking through the yellow wall」も非常に良かった。この作品は、分断を乗り越えるためには「わかろうとする」こと、共感が必要であることを伝えるメッセージを感じた。

マジョリティのマイノリティに対する安易な共感が暴力性をはらんでいることを理解しつつ、わかろうとすること、共感しようとすることを諦めないでいたいと思う展示だった。

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