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あれ、私って本当に「私」だっけ?

おはようございます。ゐのせです。

昨晩は夢を見ました。人は浅い睡眠状態であるレム睡眠時に夢を見ることが多いとか。夢については現代の科学でも不明な点が多いそうです。

夢と現実との見分けがつかなくなることってありませんか? 私は頻繁にあります。目覚めたときにはじめて「今のは夢だったのか」と気づきます。

そんなときにいつも思い出すのが「胡蝶の夢」という寓話です。

胡蝶の夢

ご存じの方もいらっしゃると思いますが、「胡蝶の夢」は中国の哲学者である荘子が作り出した寓話です。

内容はこんな感じ。

かつて荘子は、夢の中で蝶となりひらひらと舞っており、荘子であることを忘れていた。ふと目が覚めると、紛れもなく自分は荘子であった。果たして、荘子が夢の中で蝶となったのだろうか? それとも、蝶が夢の中で荘子になったのだろうか?(『荘子』)

「夢と現実のどちらが自分の真の姿なのだろうか?」という疑問を読者に投げかけています。この寓話の解釈は「外形にこだわる必要はない」や「問いを投げかける「私」こそが真実である」といったものがあります。

しかし、彼の哲学思想を踏まえると次のような解釈が可能です。

「本来区別がないのに区別があるとしてしまう行為」、これこそが、僕たちが日常的に捉えている物質世界ーモノとよばれる何かが生成消滅し、現れる現象世界ーを生み出す根源となっているのである。
(飲茶(2016)『史上最強の哲学入門ー東洋の哲人たち』河出文庫)

これってめちゃくちゃ面白い考え方だと思いませんか? 「本当は世界には何の境界もなく何もないが、人間が勝手に区別することで世界が生まれる」と荘子は言っているのです。

私たちが普段使っている言語に注目すると理解しやすいでしょう。例えば、「胡蝶の夢」にも出てきた「蝶」。日本語では「蝶」という単語で表現されますが、フランス語では「papillon」です。しかし、厳密にいうと両者は全く異なる概念を表しています。「papillon」は日本語における「蝶」と「蛾」の総称であり、日本語には対応する言葉が存在しません。つまり、「日本人とフランス人は異なる方法で世界を区別しており、異なる概念で形成されている世界を見ている」ということです。

このあたりの議論は言語学とよばれる分野の話で、ソシュールという人が詳しく研究しています。興味のある方はぜひ調べてみてください。言語学も超面白いです。

この世界は誰かが勝手に区別したもの

結局何が言いたいのかというと、「世界の区別は絶対ではない」ということです。「大人」と「子供」という区別は近代になるまで存在しませんでした。国境は絶えず変化しています。

このような視点を持って考えると、今まで見えなかった世界が見えてくるかもしれません。

最後まで読んでいただきありがとうございました。

それではまた明日。

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