音楽と凡人#16 "京都mojo"

 バンドのボーカルとして初めてライブをしたのは京都mojoで、流れてしまった解散ライブの予定が組まれたのもこの場所であった。東京に引っ越す前に最後に直接挨拶に行ったのもこのライブハウスである。京都四条烏丸の地下1階にひっそりと埋め込まれたこの空間、というより藤本さんという人間の存在が今のロックボーカルとしての自分を形成したように思う。本人にそのような話をすることもないし会えばくだらない冗談ばかり言ってくるが、そんな関係が心地良くもあるのでここでこっそり書こうと思う。

 藤本さんはライブのブッキングをしてくれる人として出会ったが、絵の才能があり、mojoのマスコットキャラクターなどのデザインも全て藤本さんが描いたものだ。そしてなによりthe coopeezというバンドのボーカルである。ライブも生で何度も見たが本当に優しい音を出すバンドだと思う。常温の涙がじんわりと湧いて、やっぱりバンドっていいなと帰り道に思えるライブをしてくれる。そしてまた、いいものが全て世に出ているわけではないということも知った。

 私にとってライブハウスは自分の家のように感じられるような場所ではなかった。ライブの打ち上げが苦手だった。人一倍酒が弱く、複数人でのコミュニケーションもうまくとれない私は、大抵はどこにいればいいかわからず早く帰りたい気持ちでいっぱいだった。目立たないように端で煙草を吸い、一番目立たないタイミングで帰った。

 そんな時、いつも終盤の方でふらふらと藤本さんは寄ってきて話をしてくれた。いきなり話しかけてこないのは、しばらくは様子を見てもし他の対バン相手と話が弾むならばそれが一番いいと見守ってくれていたのだろう。結局誰とも話さないままバンドメンバーだけで固まっている私たちに近寄ってきてくだらない話をしたのち、真剣にその日のライブのことやバンドの将来などについて話した。売れる方法や数字を上げる方法などのノウハウは大企業には蓄積されているのかもしれないが、地下のライブハウスにそのような知見はなく、本当にただその日のことと、数ヶ月先のライブでめちゃくちゃ良いライブをする、みたいなことだけを話した。もちろん現実的に先に繋げるためにさまざまなことをしてもらったし、チャンスもたくさんあった。掴みきれなかったのは自分の力不足である。

 ちゃんとお金のことを考えて働いている人からすれば信じられないくらいに非生産的なことがライブハウスではしばしば行われている。才能がある者、あるいは生産的な努力を続けられる者がその淀みの中からいち早く抜けていく。私は何をこじらせたのかも判らず、しかし何かをこじらせていることだけははっきりとしたまま、空気の薄いライブハウスで声を枯らすほど歌っていた。

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