日常に殺される
こんばんは。
わたしが人生で1番どん底だと感じ、死ぬことしか救いがないと思っていた時からしばらく経ちました。
わたしは生きています。死にたいと思うこともそんなにありません。
あれから大学院はやめて内定先には学部卒で雇ってもらえることになりました。今はその会社で研修を受けています。
人間は先の不安、先が見えないことに恐れを抱きます。現代社会ならお金です。結局はお金だったのです、わたしの場合。
先が見えず絶望しかなかったとき、わたしは孤独でした。
人生が予定調和から外れて内定先が無い状態と愛がない状態から、内定が決まり愛だけがない状況になってから絶望はなくなりました。
このことから人間は生きていく手段、つまりお金がないと絶望するのだな、わたしも然りと理解しました。
愛さえあればお金はいらないという綺麗な言葉がありますが、本当にそうなのでしょうか。
生きていけるという保証があるから愛を求める余裕ができるのではないでしょうか。
別にお金持ちになりたい、お金持ちと結婚したい、贅沢したいということではなくて、安心して慎ましく生活を行なっていけるだけの最低限のお金は必要だと思っています。
わたしも愛さえあれば何もいらないという神話を信じていたので、内定が決まって希死念慮がなくなったときに、打算的で利己的な自分に嫌気がさしました。御伽噺のようにきれいな世界で生きたかったな。
そうこうしているうちに入社式に参加し、研修を受けています。
あの時は何もしていなかったから時間が有り余り、悪いことばかり考えていました。でも今は毎日をやり過ごすので精一杯です。朝起きて、電車に乗り、仕事をして、また帰って寝る。生きていくのに必死です。仕事はとてもやりがいがありそうだし、もっとできるようになりたいと思います。でも、社会人になって、いわゆる9時から5時まで働いて(ちょっと過ぎますが)あっという間に1日が過ぎて行きます。元気も体力も精神も全て持っていかれます。まだなれないからかもしれませんが。これが社会人なのですね。これが。
生活をするために働いているのに、仕事に生活が潰される。
これが社会人なのですか。
こうやって同じような毎日を繰り返してあっという間に歳をとって死ぬ。
これでいいのだろうか。
わたしは抵抗できない。
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