「粉雪」


参列者の数は楓(かえで)の想像以上に多かった。開け放たれた障子の向こうには、先程から真っ白な雪が舞い始めていた。家の中の黒一色の辛気臭いイメージを、何としてでも振り払おうと、宗次が空の彼方から雪を降らしているのだろうか?

(人間、いつ死ぬのか判らないもんだな。特に俺なんか、いつ死んでも不思議じゃない。なあ、楓?俺が死んだ時にお願いがあるんだ。俺が死んだら皆が笑って見送ってくれるようにしてもらいたい。葬式の時にもしも誰かが泣いていたら、俺が嫌がるからって笑うように言ってくれないか?)

結婚してから何度も聞かされた宗次からの遺言。若い時から死ぬ事なんて何故考えるのだろうと思っていた。楓はいつも適当にカラ返事をしていた事を思い出す。思い出すたびに涙が零れ落ちそうになるが、連れ合いの自分が泣いていたのでは宗次はもっと寂しがるだろうと、喪主である楓は、焼香を済ませて挨拶に来る人たちとの会話の中で、決して涙が零れないように、宗次と出会った時の事を思い出しながら、下唇を血が滲むほど噛み締めて耐えていた。

「楓さん、お久しぶりです。結婚式以来だけど覚えてますか?」

楓の考えを断ち切るように、目の前に胡坐をかいて座った白髪交じりの顔は、何となく記憶にあるのだが、楓は、はっきりと名前を思い出すことが出来なかった。

「申し訳ないんですが、顔は記憶にあるんですが、名前がどうしても思い出せなくって」

本当に済まないと言う顔を見せながら楓は目の前の人物に謝った。

「いや、いや、覚えてないのも無理はありません。結婚式で会って以来なのですから、もう四十年以上も会ってないんです。宗ちゃんは、死なない人間だと思っていたものですから、ついつい、会いに来るのを怠っていた私が悪いんです。ほら、清次ですよ」

自分の年輪の刻まれた顔を染みが浮かんでる人差し指で指しながら、清司と名乗った人物はにこやかに話しかけた。

「え?あ、もしかして、せっちゃんですか?」

楓は猛スピードで記憶を遡り、清次の四十年前の姿に思いを馳せた。モデルのような顔立ちをしていた清次が鮮明に頭の中に蘇る。このまま年を取ったら、どんなに素敵な男性になるのだろうと思っていた清次が目の前にいる。剥げてはいないが、殆どが白髪になってしまった清次の胡麻塩頭を見やると、時の速さが全てを変えていくのだと否応無しに感情を揺さぶる。

「そうですよ。良かった、思い出してもらえて。私、大分変わったでしょう?」

清次は何となく、楓が言わんとしてることを先回りして、頭に手をやり破顔した顔を楓に向けた。

「大分変わりました。あ、でも、そういう事じゃなくって、あ、失礼な事を言ってしまったようですわ、ごめんなさい」

楓は心を読まれたようで恥ずかしかった。

「ははは。楓さんは変わっていないですな。素直で、思ったことを直球で言う」

嫌な顔をしながらではなく、本当に嬉しそうに清次は言う。モデルのようだった顔立ちはなりを潜めたが、代わり年齢相応の人の良さを顔に纏っていた。

「はい。思ったら、考えもしないで言ってしまうんです。宗次さんには、それはいけない事だよと、よく怒られました」

「ははは。宗ちゃんは、昔からずっとそうだったよ。高校の先生にだって、言葉を直しなさいって言ってたしな」

「先生にまで、そんな事を言っていたんですか?」

「先生だろうが何だろうが、宗ちゃんが聞いていて間違ってると思ったら、誰にだって注意してたよ」

「あの人らしいですね……」

自分が喪主になって宗次の葬儀を行っているのは、頭がおかしくなるほどに苦しかった。しかし清次と昔話を始めだすと、まだ宗次がそこに要る様な気持ちになってくる。沈んでいた気持ちが清次の言葉によって少しだけ薄れる事に感謝しながら、宗次の人生を振り返っていった。

「清次さん。お願いを聞いてもらえますか?」

「何でも言って下さいよ。金は無いが、退職したから体の自由は利きますので」

「いえ、そう言ったお願いでは無いんです。宗次さんが遺言のように言っていたんですけど、今日は、決して涙を流さないで欲しいんです。宗次さんからの願いですから、お願いできますか?」

「それ位できると思いますが、宗ちゃんが、そんな事を言っていたのか?あいつらしい願いですな。もしかしたら、葬式の最中、ずっと近くにいて、泣いてる奴がいないか観察してそうな気がしますね」

「絶対にそうだと思います。だから、私も泣く訳にはいかないんですよ…」

「判りました。決して涙を流さないようにしましょう。今日の主役は宗ちゃんだ。泣いてる奴を見かけたら、僕が笑わせる役を引き受けましょう」

清次は、自分の胸を叩きながら引き受けた。清次が楓の前から離れると、楓は宗次の遺影を眺めた。宗次が遺影には、これを使ってくれと頼まれた写真が花輪の中で笑っている。親族からは、もうちょっとマシな顔があるだろうと、抗議を受けたが、これも宗次の願いだと頑として首を横に振った。

宗次の遺影は半分白目を剥いている顔であった。写真を撮ると言えば必ずこんなふざけた顔をする。普通にしていれば格好良い顔の部類なのに、決して真面目に写真を撮らせてはくれなかった。もっとマシな写真があるだろうと言われたが、本当はマシな写真などは一つも無かったのである。結婚する前なら普通の写真も無い事は無いのだが、四十年以上も前の写真を使うのは楓には躊躇われた。

楓は宗次の生き方を考えた。理解の及ばない世界に宗次が要る寂しさを常に抱いていたからだ。職を転々とし「地に足をつけて働いて!」と、何度も夫婦喧嘩をしたが、宗次は決して一つの場所に留まれない性格をしていた。

職を転々としながらも、決して収入を止める事をしなかったのは在り難かったが、楓は女であるから、安定した職業に就いてくれる事を何度も宗次に願った。

「ごめん。どうしても、それは出来ない。世界は広いし、人生は一度しか無いじゃないか。決して君を路頭に迷わせる事だけはしない。だから、職業の選択だけは僕に任せてくれないか?」

その(路頭に迷わせる事だけはしない)と言う言葉に嘘は無かったのであるが、今ひとつ、妻である楓にも、宗次が本当に何をやりたかったのかは判らない。掴みどころの無い宗次の性格が、ただただ寂しかった。

年金暮らしが始まって、少しは家にいるのかと思えば、そうはならなかった。人生がいつ終わるかも知れないと、毎日のように、生き急いでいるような宗次は、最近ではカメラに凝っていた。カメラを抱えて飛び出していく宗次は、国内に要る事もあれば、急に海外に行っている事もあった。

参列者の顔ぶれを見ていると、宗次が人生を賭けて何をやっていたのか、余計に判らなくなる。通常の葬儀はどのくらいの人が来るのであろうか?先程から見知らぬ弔問客が増えてきた。明らかに日本国籍を持っていないと思われる弔問客もいた。楓は、挨拶をされても、いつの知り合いなのかと首をかしげた。

「宗次さんの奥様でいらっしゃいますね?」

コバルトブルー。海色の眼をした人間が流暢な日本語を操りながら楓の前に腰を下ろし、両手を畳につけて挨拶した。

「ええと、どちら様でいらっしゃいますか?」

「私は、カイルと言います。宗次さんには、生前、大変お世話になった者です」

「カイルさんですか?何時のお知り合いなのでしょうか?」

楓の心にいつも感じていた不安が浮かびあがった。

「私を助けてくれたんですよ。彼と最初に会ったのは日光でした。日光東照宮に家族で旅行に行ったときに、宗次さんと偶然出会ったんです。私たちは、日本で貿易の仕事をやっていたんですが、上手くいかなくなってしまってですね。所謂、借金地獄って奴ですよ」

カイルと名乗る外人は、急にそんな話を始めた。楓は話を掴めないでいたが、話の先を促すように相槌を打った。

「日光に行って、話しかけられた時に、私たちは絶望していました。宗次さんは何かを感じたんでしょうね。東照宮で話しかけられた後、私たちのホテルの名前を聞いてきました。宗次さんは私たちと同じホテルにチェックインしました。丁度、華厳の滝が近くにあるホテルだったんです。私たち家族はホテルでのんびりした後に、華厳の滝に散歩に出かけました。ホテルからの路は街灯があったので迷う事無く滝まで行く事が出来ました。

私達が華厳の滝に着くと、宗次さんがベンチに腰をかけて、まるで私達がやって来ることを知っていたかのように待っていたんです。宗次さんはあの時、何となく感じるものがあったんでしょうね。私達が死のうと考えていることを。宗次さんは私たちに近づいて、娘を抱き上げて肩車しました。娘はまだ三歳だったんですが、私が抱いて一緒に飛び降りるつもりでした。娘を急に抱き上げて、肩車をされてしまえば、一緒に飛び降りる事も出来ません。肩車をされながら、娘はきゃっきゃと喜んでいました。宗次さんは、フェンスから滝壷を見下ろしながら、ゆっくりと話し始めました。――この華厳の滝には年間で何人か飛び込むらしいんですよ。滅多に上がってくる事は無いそうです。滝壺に嵌りながら、永遠に水の中でグルグルと浮かび上がる事も無く、洗濯機の中の洗濯物のようにグルグルと廻っているそうです。未だに飛び込んだまま、滝壺の中で廻っている死者も多いそうです。そうそう、運良く上がってくる方もいるそうですが、何しろ洗濯機でグルグル廻った後ですから原形も留めていないそうですよ。小さい子供だったら、どうでしょうかね?原形を留めていない娘さんを想像してみてください。この子はまだ、死ぬ事とか、死ぬと言うこととか判らないかもしれません。判らないけれど、苦しいでしょうね。息が出来なくて死ぬのは、物凄く苦しいそうですよ。こんな夜中に、華厳の滝に散歩するなんて、日本じゃ、自殺と相場が決まっているんです。何があったのかは知りませんが、この子を連れて行くというのであれば、許しませんよ。三歳の娘さんには、まだまだ将来もありますからね。親の都合で連れて行くには、あまりにも若い命ですから。もし飛び込むのなら、この子の面倒は私が見ます。大人の都合でこの子の将来を奪う権利は貴方達には無い――そう言って、宗次さんは娘を肩車しながら、ホテルの方に向かって歩いて行ってしまったんです。私たちは、あまりにも不意を突かれてしまって、宗次さんが娘を連れて行くのを呆然と眺めていました。慌てて、ホテルまで家内と走りましたよ。ホテルに着いたら、ロビーのソファーに宗次さんが座っていました。娘は眠っていましたよ。宗次さんがかけてくれたんでしょうね、娘にはホテルの浴衣が掛け布団のように掛けられていました。私たちは、宗次さんに話しました。事業の失敗のことや、自殺を思い立った訳を。宗次さんは、ずっと黙って聞いていました。私は話しながら、涙が流れてきました。借金を返す当ても無く、このまま生きていても辛いだけである事を永遠に話していました。宗次さんは娘の肩をポンポンと叩きながら、起きないようにポンポンと叩き続けていました。最後まで話し終わると家内も横で泣いていました。広いロビーには他の客は誰も居らず、私たちのすすり泣きだけが響いていました。宗次さんは、言いました――大丈夫ですよ。死ぬほどの事じゃない――そう言って笑っていました。次の日には、ある電話番号を書いた紙を私に渡して――そこに電話してみてください。貴方の事は話してありますので――そう言って、部屋に戻ってしまいました。次の日になって宗次さんを探しても何処にもいなくて、先にチェックアウトしてしまったようです。私は宗次さんから頂いた電話番号に半信半疑で電話をかけました。そこは、ある外資の商社の社長室の番号でした。私に仕事を廻してくれと言われていると社長が言いました。私は東京に戻り、再起を賭けて仕事に打ち込みました。今では、会社を一つ任されて、運営しています。あの当時、三歳だった娘も、この間、結婚をしました。宗次さんに一言お礼を言いたくて、社長に何度も聞いたのですが、宗次さんの居場所を教えてはくれませんでした。宗次さんが嫌がるとの事で。

でも、今回は宗次さんが亡くなったと言う事を社長に聞かされて、聞き出して参った次第です。本当に、感謝の言葉も無いのです。何故、死んでしまったのでしょうか?生きているうちに、どうしても感謝の気持ちを伝えたかったのに……」

カイルと名乗った外人は、話し終えると狂ったように泣き出した。楓はどうしていいのかも判らずに、ただ呆然とカイルを眺めていた。カイルは数分泣き続け、楓に頭を下げて焼香をしに立ち去った。楓は、いつの間に日光なんかに行ったのだろうかと考えていた。昔から、金儲けの為には生きるつもりは無いと言っていたが、良い事をしたのなら、楓にも話してくれれば良かったのにと、少し寂しくなった。もう一度遺影を眺めた楓は――貴方、隠し事ばかりしないで、話してくださいよ。死んでしまった貴方には聞こえないかも知れないけど、妻の私に内緒話も無いでしょう?――楓はふざけた遺影に文句を言ってやりたくなった。

その後も、楓の全く知らない人物達が、生前の宗次に助けられたと言って、お礼を言ってきた。楓の知らないところで、宗次は人助けを懸命にやっていたようであった。葬儀が始まった時は悲しみで満たされていた心も、知らない人物達が数え切れないほどに挨拶に来ると悲しむどころか、宗次がさらに遠くに行ってしまった様な気持ちになった。楓の知っていた宗次は家に要る時の宗次だけであったし、家に要る時の宗次は電気を消し忘れる人物であり、トイレの電気も家の玄関も閉め忘れるような、少しだけ間の抜けた人物であった。お金になる仕事には就いた事も無く仕事の合間にもボランティアをしてしまう人物である事は知っていたが、ここまでボランティアをしていたとは知る由も無かった。

「楓さん」

清司が、再び楓のところにやって来た。

「随分と宗ちゃんは、付き合いの幅があったみたいだね」

「そうなんですよ。私の知らないところで、あの人の人生があったみたいで、何だかとっても寂しい気がします」

楓は、実際に寂しかった。家に要る時は見せなかった顔を他人から教えられると言うのは、あまり幸福な事とは思えなかった。

「宗ちゃんも、水臭いところがあるからな。でも、奥さんの事はいつも話していましたよ。東京に来る時は、僕の所には顔を出していましたからね」

「まあ、清司さんの所へは行っていたんですか?」

そんな事も話してはくれなかった。宗次の遺影を、また睨みたくなる楓である。そんな楓の顔を清司は複雑な表情で眺めていた。清司は、喪服のジャケットから一通の手紙を出して楓の目の前に差し出した。

「楓さん。昔、宗ちゃんから預かった手紙があるんです。自分が死んだ後に、この手紙を楓さんに渡してくれって……」

「宗次さんが……私にですか?」

「はい。さっき会った時に渡そうと考えていたんですが、何となく渡しそびれてしまって……」

楓は差し出された手紙を受け取った―楓へ―と表書きがあるだけで、裏側はきちんと封がされている。

「これは、いつ頃に書かれた物なんでしょうか?」

茶封筒は少し色褪せていて、何年も前に書かれているような気がした。

「何時だったかなあ?三年以上は前だったと思うけど。」

「三年以上も前に渡されたんですか?」

「渡されたのは、三年以上前だから、それよりも前の事なんでしょうね」

楓は手紙を渡されて、立ち上がった。何処か誰もいない場所で読んでみたいと考えた。楓は少し外の風に当たってくると清司に断りながら外に出た。雪はさっきよりも激しく降っていた。楓は駐車場に止めてある自分の車に乗り込んでエンジンをかけた。エンジンが温まり、暖房が効く頃になると意を決して封を開けた。


                 楓へ


これを読んでる今は葬式の最中なのだろうか。それとも出棺の後の事だろうか。清司に渡すつもりだが、あいつがどんなタイミングで渡すのかは判らない。間違いなく死んだ後に読んでくれてる事を願うばかりだ。僕が死んだ後に、君が悲しがるだろうと思ったから、ラブレターを今書いている。今、僕は東北にいる。退職をした後、カメラに凝っているが、全国を渡り歩く事を許してくれて本当に感謝している。お陰で、沢山の風景に出会うことが出来たし、沢山の人とも会うことが出来た。僕は、職を転々と替えていたが、僕なりに意味があった事なんだ。僕は人が喜ぶ顔が大好きだし、人が悲しんでる姿を見れば、絶対に助けてあげたくなる。人が困っているのを見れば、仕事が忙しくても、僕は人助けを優先してしまう。男と言うものは、基本的に家族だけを守れば良いのかもしれないが、僕はそれだけでは無いような気がしていたし、生きてる内に何人の笑顔を見れるだろうかが生き甲斐でもあった。人助けを、仕事にすれば良いだろうと楓は言うかも知れない。でも、人助けは報酬を貰うものではない。僕は、金にならない事を好んでやってきたが、会社員であるうちは、会社の利益になるようにちゃんと動いていた。しかし、あまりにも人助けばかりをやっていたから、出世の為に会社で動くという器用な真似はできなかった。そこだけは、きちんと謝っておく。財産を残してあげたかったが、何も残す事が出来なかった。もう少し、贅沢をさせて上げたかったのだがな。今更、財産を築く事も出来ないし、金儲けのやり方も僕には判らない。

葬式の時、もしかしたら、僕が助けた人たちが御礼に来るかもしれない。生きてる内は来ないで欲しいと言ってあるから、僕が死んだ時には来るかもしれない。楓は、きっと目を丸くしているんじゃないかと思う。そして、僕が人助けの為に動いて廻っていた事を知る事になるかも知れない。もう、そんな奴らが来たんじゃないだろうか?

楓が、結婚した当初、僕が浮気をしているんじゃないかと勘繰ってきた事があったよな。僕は誓って浮気をしなかったし、君以外の女性を愛する事は無かった。愛するのは君だけであったし、生まれ変わるとしても、君の連れ合いになりたいと考えている。君が良ければの話であるが。今までの人助けを全部話すとしたら、とんでもない時間が掛かるだろうし、君がまた、私に隠し事をしてと、寂しい顔をする事が判るから言わないで来た。死んだ後なら、君の寂しい顔を見ることもないだろう。君の寂しそうな顔だけは見たくないといつも思っていたからだ。死ぬ時には笑われて死にたいと、僕がいつも言っていたのを覚えていると思う。君は今、笑っているだろうか?それとも、これを見て怒っているだろうか?人の人生を考えすぎて、自分の家庭を蔑ろにしたつもりは無いが、家に居る時間数が少なかった事が、君に寂しい思いをさせていたのではないかと、今、思う。次の世界があるのなら、君とだけゆっくりと過ごしたい。生きている間は、あまりにも不幸な人間が多く、見てしまえば決して放って置くことは出来ない。判ってくれれば良いが。

もし、葬式の時に、君が泣く事の無いように手紙を書いているが、口下手な僕だ。思いをきちんと伝える事が出来るのかどうかが、とても不安だ。もし、何人かでも、僕が助けた人物が挨拶に来たら話をしてあげて欲しい。その人たちが幸せに暮らしているのなら、僕がやった事が無意味な事ではなかったと言う事になる。君の寿命が来て、僕よりも後に死んでくれないと、この手紙も意味を持たなくなるが、何となく自分の命ももう直ぐ終わるような気がするから、多分、大丈夫だとは思う。

僕が死の間際に居る時に、君にこの思いを伝えられる可能性は低い。だから、手紙にした。喪主を務めるのは大変な事だとは思うが、頑張ってやってくれ。決して泣く事の無いようにして欲しい。君に泣かれるのは世の中で一番辛い事だ。お願いをしておくよ。先に逝って楽しんでるからな。                宗次


手紙を読み終えると、暖房が効きすぎている車内で楓は大きくため息をついた。車から出ると、雪が小降りに変わっていた。焼香の為に訪れた、楓の知らない人間達は、どんな宗次との思い出があるのだろうか。

家の中に入り遺影の見える位置に立つ。いつの間にかお客の殆どが帰っていき楓は一人、棺の前に座った。遺影は相変わらず白目を剥いている。死ぬ時に笑って欲しいからと、こんな顔ばかりをしていたのだろうか。人助けは良い。あれだけ大勢の人から感謝されれば、それもいい事だったと判る。

しかし、楓に黙って、そんな事ばかりしていたと思うと、やはり悲しくなる。楓は、白目の剥かれた遺影を睨んだ。

「貴方が、私に泣かないようにと頼んだから、私は泣きません。ただ、黙っていたのはやはり許せません。あんな手紙を貰っても、やはり許せません。そんな風に白目を剥いても、許しては上げません。そっちに私が逝く時が、何時来るかは判らないけど、覚悟しておいて。絶対に殴ってやるから……」

いつの間にか雪は止んでいた。月でも出ているのか、庭に降り積もった雪が異様なほどに輝いていた。

「ねえ、本当にそっちに行ったら、私とだけ話してくれるんですよね?」

庭を見ながら、楓は心の中で宗次に話しかける。人に奉仕をした人生を旦那が送っていた事は素晴らしいことなのかも知れない。しかし、やはり自分の者だけであってほしいとも思う。女なのだからどうしても思ってしまう。寂しさもあるが、悔しく思えて仕方がなくなってくる。全部話してくれて、私が理解しないとでも思ったのだろうか。勝手な男の勝手な人生だと文句を言ってやりたい。自分はそんなに信用が無かったのだろうか。話してくれても良かったじゃないか。死ぬ前に話してくれる時間は十分にあっただろうに。楓は、宗次の棺を静かに開けた。開けられた宗次の亡骸は外の雪のように白くなっていた。

「ねえ、貴方。私と暮らして幸せでしたか?人助けも良いけれど、八方美人じゃ女が辛いだけなんですよ。確かに良い事は良いです。でも黙ってやることなんて無かったでしょう?私は信用に足らない女だったんですか?そっちに行ったら、本当に私だけを面倒見てくださいよ?そうしなかったら、許さないわ。絶対に許さないからね……」

外で少しだけ風が吹いた。屋根から落ちる雪が、風に乗りながら室内に流れ込む。楓は拳を握って殴りたい衝動に駆られた。死者を殴るのは、どうかとも考えたが、宗次なら赦してくれるだろうと思った。その時、もう一度風が吹いた。気温が下がっているのだろう。粉雪が舞い込む。粉雪は正確に意思を持ったように宗次の真っ白な顔に降りて行く。粉雪は、ゆっくりと、ゆっくりと溶けて行く。粉雪を眺めながら、楓は拳を握るのを止めた。解けていく雪が涙のようにも、冷や汗のようにも見えたからだ。

「何をそんなに、びくびくと怖がってるんですか。そこまで責めてはいませんよ。私に内緒でいい事をしていたのだけは赦せないけど、そっちに言ったら、何で言ってくれなかったのかを絶対に教えてもらいます。私を納得させる話を考えておいてくださいね。絶対よ?」

そう言った楓の眼から、今日だけ泣くまいと我慢していた涙が零れ落ちた。

「ごめんね。泣く積もりは無いんだけど、ちょっとだけは泣かせてくださいな。他人には泣かせて、私にだけ泣くなだなんて不公平でしょ?」

楓の涙がハラハラと宗次の顔に零れ落ちる。家では不真面目な事ばかりしていた宗次が、人助けをしていただなんて思いもしなかった。

「そっちに行くまで、待ってなさいよ。黙ってた事を私は本気で怒ってるんですから。一回くらいは殴りますからね。でも、でも、本当に……ご苦労様でした、宗次さん」

零れ落ちた涙は、宗次の亡骸を濡らす。室内には楓の嗚咽だけが響く。宗次の顔についた楓の涙は、本当に冷や汗をかいてるように見えた。宗次の体温と同じくらいに冷たい粉雪が室内に一斉に舞いだす。楓には、凍るような冷たい粉雪が何故だか暖かく感じた。


                                  了


この記事が参加している募集

スキしてみて

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?