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書くこと・話すこと

書き言葉と話し言葉は違うな、と思う。

家族や友人に話していると、ついうっかり口が滑ってしまうことがある。でもわたしは気づかない。話し言葉は流動的で、力を持つ。それ故に、時として思わぬ形で伝播する。わたしは話すことが得意ではない。

わたしは書き言葉が好きだ。言語と思考、感情のズレを意識しながら、静謐な環境でパソコンに向かう。この時間が好きだ。書くことも全然わたしの感情を楽にはしない。けれども、ズレを少しでも自分自身で意識できること、これが重要だと思っている。

けれどもわたしは画面を見て、ふと考える。
果たしてわたしの今使っている言葉は、本当に「書き言葉」なのだろうか。

わたしはnoteの原稿を、今まで一度も紙に書き起こしたことがない。厳密に言えばここでの文字を書いたことがないのだ。キーボードを打って、思考を文字に起こす。この言葉はなんだろうか。

ペンを手にとってみる。「幸」という字を、白紙に大きく書く。「幸せの横棒ひとつくらいで満たされたい」というあいみょんの歌詞があるけれど、この横棒は、まさしく漢字全体のバランスをとるかのように手元に横たわっている。「眠」や「寝」の字をずっと見ていると眠たくなるように、心のバランスをとる横棒なのかもしれないな、とぼんやり考える。

次にその横に同じくらいの大きさで、「死ね」と書く。ありがたいことに、わたしの感情を占める憎悪は、少なくとも今この瞬間には微塵も存在しないので、この言葉は少し浮いたものとして、意味を持たぬまま白紙に刻まれる。
けれどもわたしはこの言葉の重さを知っている。どれほどの脅威となりうるかも、知っているつもりでいる。書いたものを見つめていると、段々と不快感がこみ上げてくる。送るあてもないが、送り先を想像し、心を痛める。しかしこれは、今日もどこかで誰かが誰かに、実際に送っているかもしれない言葉だ。

手紙や書類を書くときに使う言葉が書き言葉ならば、このように打ち込んで生産される言葉は「打ち言葉」だ。言葉は変化する。悲しい話だが、精査されずに世の中に飛び出した「打ち言葉」たちが、いとも簡単に人を傷つけることがある。


紙に書く タイムラインに載せる その二文字の重さ軽さに思いを馳せる


わたしは言葉の暴力性を知っている。だから止めたいと思う。言葉自体に罪は無い。言葉を紡ぐしかないのだけれど、どう言ってよいのかわからないこともある。無力さにつぶれそうになるけれど、わたしは黙っているわけにはいかない。

「言葉のない世界を発見するのだ 言葉をつかって」
                ―――――田村隆一『言葉のない世界』


わたしは今日も戦うだろう。言葉を使って、言葉を救うために。
あるいは言葉に苛まれて行くあてを失くした、かつての少年少女たちに。


ことのは

4月になると思い出す
三つ葉とともに消えた君
三つ葉は踏まれ、傷ついて、
そうして四つ葉になるんだね
まもなく君は死にました
ならば三つ葉のままがいい
もう無い言葉を聴きました

言葉で語る僕が好き
そう言って笑う君の頬
緑のあわいに溶け込んだ
こうして四つ葉になるんだね
その最中、君は死にました
涙を分かつに値しない
もう無い言葉が責め立てる


僕をどうか 置いていかないでください
言葉の届かない場所に
僕は言葉をとめられない
僕は言葉をやめられない

君はどうか そのままでいてください
言葉の届かない場所で
君は言葉をとめない
君だけが、言葉をやめない



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新しいキーボードを買います。 そしてまた、言葉を紡ぎたいと思います。