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『「ロシア」は、いかにして生まれたか: タタールのくびき』歴史を学ぶことの重要性を教えてくれる1冊だ(世界の歴史)

 司馬遼太郎の『北方の原形 ロシアについて』で、現在のロシアのカタチを作ったのは、259年にも及ぶタタールの支配によるものだということを知った。ロシアにとってもタタールとは、モンゴル帝国が支配に置いたトルコ系タタール人を指す。その支配の抑圧から生まれたロシア人の性格は、次の4つというのが、司馬遼太郎の分析だ。

1)外国を異様に恐れる
2)病的な外国への猜疑心
3)潜在的な征服欲
4)火器への異常信仰(モンゴルは矢や火薬を使った火器が得意)

 本書は、キエフ・ルーシーから259年続いたタタールのくびき、そして現在のロシアまでの歴史を別の角度からまとめてある。

 ロシアのルーツは、 スウェーデンからロシアに移住したノルマン人と考えられている。彼らが先住民のスラヴ人と混血し、現在のロシア人となった。「ルーシ」は、国家としての「ロシア」の語源であるともいう。

 10世紀以来、ルーシーの中心は、諸都市の母と呼ばれるキエフ(キーウ)だった。しかし、モンゴル人による支配であるタタールのくびき時代に中心地がモスクワへ移った。ロシアは東方正教会の配下にあるが、タタール支配は宗教的寛容の恩恵を甘受し、貢納(こうのう)も免除されていた。イスラームは他宗教について寛容なことがプラスに働き、ルーシーの府主を、キエフではなくモスクワが担った。さらにモスクワ諸公は、タタールを後ろ盾にした。タタールとの関係を一定程度維持しながら自らの権力を固めたのだ。

 諸説あるが、イヴァン3世時代、1480年のウグラ川でのタタールとの対峙からの勝利(タタールが撤退した)が分岐点となり、タタールのきびきは終わる方向に歴史は流れた。その後、ロシアの教会は全ルーシー府主教区の一体性を主張し続けた。それがキエフを支配下にする大義となっている。このような教会の後を追う形で世俗においてもキエフとの歴史的なつながりが強調され、リトアニア支配下の地域を全ルーシーと考えるようになった。

 これらのことから、現在のロシアとウクライナの戦争を理解するためには、タタールのくびきにより「多くの権力が一人に集中するような政治体制」「それを許容するようにみえる国民意識」などが、性格づけられたこと。ウクライナを含んだルーシーをロシアの一部と考えるロシア正教の存在などが、くっきりと見えてくる。歴史を学ぶことの重要性を再認識する1冊だ。

Creative Organized Technology をグローバルなものに育てていきたいと思っています。