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『力学の発見 ガリレオ・ケプラー・ニュートン』創造の源が法則と仮説の接着剤になる(世界の歴史)

 ガリレオ、ケプラー、ニュートンの法則や方程式でなく、彼らの生まれ、育ち、学んだ環境などの彼らの創造の源をたどった本。著者は湯川研究室出身の物理学者だ。

 コペルニクスと宗教改革のカルヴァン、ミケランジェロが同年代、ガリレオとケプラー、哲学者のベイコン、シェークスピアが同年代、ニュートンが生まれた年にガリレオが亡くなっている。天才と呼ばれる人たちを時系列に並べ、当時の時代背景を被せてみると、いろいろなものが見えてくる。ガリレオの住まいの近くのヨーロッパ最古の植物園オルト・ポタ二コは、ガリレオの思索の場だったが、後にゲーテもイタリア旅行で訪れ、植物のメタモルフォーゼ(植物の形態は一つの形態から発展したもの)の着想に思いついた場でもあったという。

 ケプラーが惑星の観測を徹底的に行ったティコ・プラーエ(53歳)の助手となったのは29歳だった。しかし、ケプラーは四歳のときに天然痘にかかって視力が弱かったという。ある意味、その弱みが三法則を生み出したとも考えられる。実はケプラーは占星術師としての方が有名で、お金は占星術で稼いでいたようだ。汎神論における神の展開としての大宇宙と個体的縮小としての小宇宙との相関は耽美的な喜びだったのだろう。

 ニュートンの創造性が湧き上がってきた時期は、ペストが流行してケンブリッジ大学が一時閉鎖され、郷里ウールスソープに帰省していたときだったという。ニュートンの自宅にあったりんごの木は、挿し木として小石川植物園で今でもりんごの実をつけているが、そのエピソードは逸話ではなく事実だというこがわかった。ニュートンがいつも考え続けていたため、無意識の中で点と点がつながったのである。このことは「降りてくる」とも表現されるが、人間の脳の面白いところでもある。

 ガリレオの「落下運動の法則」とケプラーの「惑星運動の法則」を組み合わせて生まれた「万有引力の法則」は、正しくは「万有引力の仮説」である。物理学において法則は現象から導かれ、仮説は法則を説明し基礎づけるものなのだ。仮説が確実とみなされたときに原理と呼ばれる。原理は数学では公理に対応し、法則は定理に対応するので、定理は公理によって証明されるものとなる。公理は証明されるものではなく、前提としての仮定を指す。

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