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『評伝マルティン・ブーバー 狭い尾根での出会い』パレスチナ問題を解決するブーバーの哲学は、すべての日本人が知るべきだ(世界の歴史)

 本書を刊行したミルトスはユダヤ専門の出版社だが、訳者あとがきから、当時社長だった河合一充氏の熱意によって出版されたものだということを知った。ガザ戦争の今、ブーバーの人生と思想を知ることができる本書は貴重な1冊だ。

 また、序章にあるブーバー自ら自分の立場を「狭い尾根」と表していることは、同調圧力に流されやすい日本に参考になる生き方だ。ブーバーの生き方によって、『ヨシュア記』を知る日本のクリスチャンが「聖なる不安定」という立場を持つことにつながるならば、本書の価値はさらに高まる。

 ブーバーの母親はブーバーを捨てた。それを強烈に認識した近所の少女からの「お母さまはもう二度と帰ってきませんよ」という言葉と、農業を正業とする父親の「馬の群れの真ん中に立ちその一頭一頭に挨拶する」という姿勢が、彼の思想に大きく影響していると思われる。母親を失った孤独からは、すべての人間はすれ違いに悩み、真の交わりを求めていることを知る。そして、父親のように、動物ですら見下すことなく、一人ひとりの人間に真心込めて挨拶をすることから生命の中に神を見出すという、相手の中に神性を見つめる眼を受け継いだ。

 彼の思想は「私とあなた」(我と汝)だけだ。シンプル極まりない。アガペー(彼はこの言葉は使わないが)が心の中で生まれるのではなく人間の外にあり、私とあなたの間にあるもの。アガペーとは中でなく外に向けて開花する生命の活かし合い、高め合いの関係性そのものなのだ。民族だの宗教だの主義などという「一元論」の壁を乗り越えれるという思想、それが「我と汝」であり、神は、「永遠の汝」なのだ。

 イスラエルに住むイスラエル人としてのブーバーのパレスチナに対する数々の発言は、少数派の中の少数派だが、今こそ必要なものだろう。彼の「二民族共存によるシオニズム」という論文は、思想家の枠を超えたものだ。
 イスラエルにはBという頭文字のベングリオンとブーバーという二人の偉大な人物がいるとされる。しかし二つのBは対立する。それはアラブとイスラエルの対立だけでなく、聖書的意味において、社会主義的無政府主義者のブーバーと国家崇拝と現実主義のベングリオンは対立した。ブーバーは単なる無政府主義者ではなくコスモポリタンなのだ。

 ブーバーのイスラエルでの暮らしぶりは、次の一文に凝縮し、表されている。

「私には友人も弟子も十分にいる。たしかに不人気だが、若い頃からこの老年に至るまで、慣習に逆らってきたのだから、仕方ないだろう。『広い範囲の人たち』が私を避難している主な理由は、私が1917年以来、アラブとの強力(1947年までは二民族国家での、攻撃してきた七カ国にイスラエルが勝ってからは諸民族の近東連邦の形での)をはっきりと支持し、ユダヤとアラブの和解を支援する政治活動の先頭に立ってきたことである。私への非難の二つ目の理由は、ドイツ国民と、ガス室による虐殺をおこなった殺人組織の虫けらどもを混同することに、私が反対していることである」

 ブーバーの弟子、ブーバーの思想がどこまでイスラエルに残っているかはわからない。右左の政治思想を乗り越えたところにある「狭い尾根」を、人類的と表現すべきか、コスモポリタンと表現すべきかはわからないが、「我と汝」という哲学は今の世界に必要なことだけは確かだ。

Creative Organized Technology をグローバルなものに育てていきたいと思っています。