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極私的野村克也メモリアル

 イニング間に、生前の「野球人生最大の失敗は阪神の監督を引き受けたこと」なんて語録まで紹介される一幕があり少しザワついた、なんて記事も目にしたが、試合は阪神が快勝――

 3月28日(日)に神宮球場で行われた「ヤクルト×阪神」3回戦は、両チームで指揮を執った野村克也元監督の追悼ということで、全員が背番号《73》のユニホームを着用して試合に臨んだようだ。

 昨年亡くなってからは特にそうだったが、いろいろな番組や記事で見たり読んだりするものの大多数は、現役時代の話より、指導を受けた選手による野村「監督」の思い出や言葉だ。

野村克也(シダックス監督)02s

 監督としてだけでなく(画像は、社会人チームのシダックスを率いていたときのもの)、選手時代の実績やエピソードも豊富な人なのだけど…本人はもちろん、語れる同世代のチームメートやライバルも年齢を重ねている。取材対象も、番組や記事・誌面の作り手も息子や孫の世代が中心なのだから、どうしても時系列的に近い、監督時代に触れた内容が多くなるのはしかたないことか。

 そんななか……

 もう10年近く前のこととはいえ、編集者として、南海ホークスでともに主軸を打った門田博光さんをまじえ、初代セーブ王の佐藤道郎さんの店「野球小僧」で野村さんの選手時代のいろいろな話を聞く機会に恵まれた経験は、貴重だった。

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 佐藤さん(右)は1969年のドラフトで1位、門田さん(左)は2位で、南海が指名した選手だ。

 両氏に加えて印象深いのは、高井保弘さん。阪急ブレーブスでプレーし、代打本塁打の記録を持ち、独自の[クセ盗み]技術などで野村さんを苦しめた一人だ。

 門田さんや佐藤さんと同じく、編集として取材に立ち会えたことをなつかしく、とても印象深く思い出す。

「おまえ何待ってんのや」と後ろで言いよるわけ。そんで「ほんなら、ヤマの張り合いっこしましょか?」と言うと、「やるか? よっしゃ」と来る。(中略)「ハイ、ノムさん、インコース高めの真っすぐ」。そしたら、そのとおりに来んねん。ズドンとボール球。で、次サイン出した後、「次なんや?」と聞くから、「ノムさん、フォークや」と言って、コーン打ったらバックスクリーンの横へホームランになった。ほんで、一周して還ってきて、「われ、なんでわかんのや」、「そんなこと言えまっか、言えまへん」ってな。その時、江夏やった、ピッチャーが、南海で。ワシは江夏のクセ、知っとったわけよ。パーッとフォークの握りしとったわけ。グラブがパカーンと開いて。(『野球小僧』2004年6月号より)

20040409高井保弘12

 野村さんの少し前、2019年12月に高井さんは旅立ってしまったが…

 当時の「メモ」も拝見。盗塁王・福本豊さんを封じるための「クイック」のように比較的知られたエピソードを見たり読んだりするのとはちがった面白さを感じたものだった。


 どれくらい前だったか、残念ながら実現はしなかったが、野村さんへ取材依頼の電話をした際に数分、沙知代夫人と話したこともあったっけ…なんてことも思い出す。


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