映画『街の上で』

別稿で、映画『街の上で』(今泉力哉監督、2021年。以下、本作)についてどうでもいいような雑文を書いたが、少し真面目な感想も書いておく。

本作は、東京の「下北沢」という実在する街で暮らす若者の「何気ない日常」を描いている。だから、大した事件は起こらないし、「ネタばれ」を気にするような展開や結末もない。

本作は「フィクション」だが、「劇映画だから」という理由ではない。

確かに、フィクションを「ありそうだけどないエピソード」と考えれば、「街の上で」起こる個々のエピソード(たとえば終盤の、青・イハ・雪・マスターと何故かイハの(元?)彼氏(「国井」という役名)のやり取りとか、その後の雪の逃走とか)は、そうとも言える。

しかし、「下北沢」という実在する地名を出し、撮影当時の小田急/京王「下北沢駅」を含む周辺の再開発現場や、「ザ・スズナリ」の(撮影当時、実際に上演されていた芝居の)ポスターをそのまま映しこんでいることから、「ありそうだけどない場所」ではない。

だから、本作で登場する魚喃キリコの漫画を携えた女性が、所謂「聖地巡礼」をする、といったようなフィクション性はない(「聖地巡礼」は「フィクションとしての場所」に「(作者の意図によって)リアルが紛れ込んでいる」というのが前提であり、その意味で本作は「フィクションとしての場所」を明確に否定している)。

さらに言うと、青が名前を知っている(もしくは相手が名乗った)人物にはちゃんと役名が付いている(先に挙げた「国井」とか。付いていないのは行きずりの人(「メンソールの女・男」、「警察官」、「ラーメンの女」)と、名前を知らない/もしくはそう呼び慣れた人(「マスター」)、及び出会わなかった人(「元関取」)。ついでに言うと、亡くなった古本屋の店主のことを青は苗字で呼んでいるが漢字を知らない(と思われる)ので、役名はひらがなで「かわなべ」)。
つまり、青との関係性において「リアル」が担保されているのである。


では、何が「フィクション」なのか?

本作でのフィクション性は「できそうだけどできない」という性質のものである。

そういった意味で、本作のターゲットは、下北沢に住んでいるような人ではなく、そこに憧れる、或いは実際に遊びに来そうな「20歳前後の若者」なのではないだろうか。
そして、そこには、映画のタイトルに「下北沢」を入れず「街」にした理由も隠されているのではないか。


本作の主人公・青は(27歳で雪と付き合うまで童貞だったという発言から推測して)たぶん30歳前後で、ターゲット層の若者から見て「兄貴(=大人)」的位置づけとなる。
ターゲット層である若者は、青が読書しながら店番しているような小さな古着屋で仲良くなった(年上の)店員に相談しながら古着を選び、気ままにライブハウスに入りビール片手に知らない人の演奏を聴き、見知らぬ客にタバコをねだられたり(自分からはねだれない)、気が向けば知り合いのマスターがいて怪しげなクラブミュージックが流れる狭くて薄暗いバーに寄り、青のような常連の兄貴に恋愛相談をしてしまう…

「大人のコミュニティーに受け入れられ、そのメンバーとして振る舞える自分」を「大人」と定義する、一種の「憧れ」である。

そういう若者にとって青は、「コミュニティーに誘ってくれる大人」であると同時に「将来の自分像」でもある。

だから、若者にとって主人公・青は共感する存在ではない。

それを担っているのは、イハである。

大学進学をきっかけに(方言から推察して)関西地方から下北沢にやってきたであろうイハは、いわば「コミュニティーの外にいる人間=ターゲット層の若者」を象徴する存在として描かれる。

そんな若者の象徴であるイハは、年上の青に対して「友達になって」と頼み、それを青が快諾するのである(=コミュニティーに受け入れられる)。

そう考えると、それ自体は若者が憧れる、ありふれた「大人の階段を上る行為」であり、だから頑張れば「できそう」に思える。
しかし、実際は、ほとんどの若者には「できない」のである。

だから、若者たちは「フィクション」として、青に憧れながら、イハの言動に自らを仮託して本作を観るのである。

タイトルが『街の上で』なのは、それが「下北沢」である必然性がないから。
だって全国の「街の上」には同じようなコミュニティーがあり、青のような人々がいるのだから。


私とっては、まだ10代だった頃に憧れた「大人像」をそのまま映像化したような映画だった。
憧れて、でもやっぱりできなかった、かつての自分自身を懐かしく思い出しながら、本稿を書いた。


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