映画『LOVE LIFE』~(2022年 TAMA映画賞最優秀作品賞)

映画『LOVE LIFE』(深田晃司監督、2022年。以下、本作)の最終盤、椅子に腰かけた妻(木村文乃)から言われ、彼女に背を向けて立っていた夫(永山絢斗)がその体勢のまま振り向き、二人の視線が合った瞬間、唐突に「LOVE LIFE」とタイトルが出るのを観て、この静かでさりげない瞬間が、二人のこれからの「LOVE」「LIFE」を暗示しているように思えて身体が軽くなった気がした。

本作開始からこのシーンまで、夫婦は背負っている「罪」から逃れようと、自分たちの罪を観客に押し付けようとしていた。
しかし、夫婦はそれぞれ罪に翻弄されるなかで少しずつ罪と向き合い、二人きりの静かな部屋で久しぶりに「目を合わせる」ことによって、ついに観客である私に押し付けようとしていた罪を自分たちで引き受ける覚悟を決めた。
「罪」が夫婦の手に戻ったことにより、私の身体は軽くなったのだ。

二人が引き受けた罪は、果たしてゆるされるだろうか?
いや、そもそも赦されたかったのは、我が子(嶋田鉄太)を不慮の事故で亡くした妻であり、再婚相手の夫は連れ子の不幸から逃れたかったのではないか。

突然葬儀場に現れた、それまで失踪したままだった前夫で子の父親(砂田アトム)に思いっきり殴りつけられたとき、妻は「罰」を与えられたと思ったのではないか。
だからこそ彼女は、閉ざしていた感情の扉を開け慟哭どうこくでき、それにより罪が赦されると思ったのではないか。

そう考えると、妻が前夫についていくのは、彼が「私を赦してくれる存在」だからで、それは「彼は私がいないとダメになる」なのではなく、「私こそ彼がいないとダメになる」と思ったからではないかとも取れる。

以降の展開は、「映画を観ている者」としてどう受け取ればいいのか迷ってしまう。

私は、本作を劇場公開時ではなく「第14回TAMA映画賞 最優秀作品賞」の上映会で観たのだが、直後に行われた授賞式に登壇した深田監督は、本作の構想を考えていた時、過去の自作の出演者がすべて聴者だったことに気付き「一人もろう者が出てきていないのは不自然じゃないか」と思い改め、「ろう者が出てこない理由はない」として、前夫を韓国籍のろう者とした、と語った。

これは逆に言えば、これまでの物語が、ろう者(を含む障がい者や様々なマイノリティー)に「特別な意味」を付与してきたことを意味する。
それに慣らされた観客たちは無自覚に、それらの人々に「特別な意味」を見出そうとする。
しかし、深田監督が「ろう者が出てこない理由はない」とするなら、それには、これまで物語に「自然に」登場してきたような人々が善人からクズまで多種多様だったのと同様、ろう者だって「普通にダメ人間、クズ」を含め多種多様だという想いが込められているはずだ。

それで、映画評論家の真魚八重子氏による本作評が腑に落ちた。

パクを流浪のロマンチストのように描く演出には、シングルマザーを増やす世の邪悪さが潜む。彼の行動はあくまで、ただ単に自分勝手である

朝日新聞2022年9月9日付夕刊
(太字は引用者による)

ろう者だろうとクズはクズ。
物語のご都合主義的偏見を捨ててその感想を良しとすることこそ、物語の鑑賞を豊かにし、ひいては物語自体をより豊かにするのではないか。
ふと、そう思った。


メモ

映画『LOVE LIFE』
2022年11月26日。@パルテノン多摩 大ホール (第14回TAMA映画賞 最優秀作品賞)

本文結末により、私自身、本作はハッピーエンドだと理解している。
ろう者であればクズでも愛想を尽かしてはいけない道理など、ないのである。

物語を通して夫婦それぞれが経験したことは、全てこのラストシーンのためにあったのではないか。
それまでの時間は、各々が自分勝手に赦されようとか、逃げようとしていたことに気づき、全てを引き受ける覚悟に至るために必要だった、そう思えるのである。


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