2022年4月9日朝日新聞朝刊の訃報欄

2022年4月9日。
前日飲み過ぎた二日酔いの頭のまま朝刊を開くと、訃報欄に中川イサト氏の名前が載っていた。
「イサトさん、亡くなったんだ……」
記事を読もうとして、ふと隣の欄に気づいた。
「菊池信義さんも!?」
思わず出たため息は確かに酒臭かったが、二日酔いによるそれとは明らかに違っていた。


「五つの赤い風船」中川イサト氏

本名中川砂人(なかがわ・いさと)。7日、慢性腎不全で死去、75歳。
大阪府出身。60年代後半に、西岡たかしさんらと五つの赤い風船を結成。「遠い世界に」「恋は風に乗って」などの楽曲で人気を博した。ギターを弾く際に、ピックを使わず指と爪で音を鳴らす「フィンガーピッキング」の名手としても知られた。

朝日新聞2022年4月9日朝刊(抜粋)

「遠い世界に」は音楽の教科書にも載ったことがあるようで、だから、若い人でも知っているかもしれない。

「五つの赤い風船」(以下、風船)は私が生まれた頃に活動していたので詳しくは知らない。
なぎら健壱著『関西フォークがやって来た! 五つの赤い風船の時代』(ちくま文庫、2021年)によると、風船の母体はイサト氏率いる『PPMのコピーバンド、ザ・ウィンストンズ(正確には一度解散して再結成した)というグループ』で、記事にある西岡氏は、再結成したグループに、後から"渋々"加入したようである。

加入のいきさつには、記事でも『名手』と紹介されているイサト氏の当時のギターテクニックが関係しているらしい。

後にはギターでその名を馳せる中川イサトではあるが、その当時はまだスリー・フィンガーなどの弾き方はおぼつかなかったと西岡は語る。
そのことを中川イサトに訊いてみた。ズバリ「そのとおり!」と返ってきた。ギターは西岡さんに特訓されたと語る。

P133

当時会社員だった西岡氏は、再結成したウィンストンズ(とイサト氏)のために、『コーチのような役目でなら引き受けると、練習に参加することにした』のだという。

やがてメンバーから本番をすぐ眼の前にして、うまく練習が出来ていないと相談をされた。それなのにコンサートの期日はもうそこまで迫っている。そこでフーコちゃん(ヴォーカルの藤原秀子氏)から「西岡さん、助っ人で出て下さい」と嘆願された。
西岡は(略)最初は渋ったのだが(略)イサトから「おっちゃん、そんなこと言ってますけど(略)」(と指摘されると)西岡は反論も出来ずに、「分かった」と快諾とはいかないまでも、首を縦に振ったのである。

P133-P134

そして、『まだバンドの名前もない頃』の1967年4月、西岡氏が"助っ人"で登場したコンサートで『遠い世界に』が演奏された。
そして1969年2月、西岡氏が"正式メンバー"となったグループは、「五つの赤い風船」としてURC(アングラ・レコード・クラブ)の第一回配布レコードで(アングラだが)デビューし、たちまち人気になる。
ちなみにこのレコード、『高田渡/五つの赤い風船』という変わったタイトルで、つまり、片面が風船で、逆面が高田渡氏の楽曲なのである(URC等については、本稿最後に挙げた拙稿に詳しい)。

(同年8月に)セカンド・アルバム『おとぎばなし』が発売され順風満帆であったはずの風船に、一大事件がまき起こる。

P213

なんと、ツアー途中で『中川イサトが急遽風船をやめていくのである』。

西岡曰く「サウンドを作り込んでツアーに臨んでいるのに、イサトが新しく買ったギターを使ってぶち壊しにしてしまった」。

イサトは新しい鉄弦のギターでやると急に変えたもんだから……言っても聞かないし。それでボクも頭にきちゃって、「出来ないんだったら、クビだから帰れ」って言ったんですよ(略)
(イサトは)誰か応援してくれるだろうっていう気持ちがあったんだろうけど。誰も味方してくれないから、最後は「お前ら、俺は知らないよ~」って……結局、すねて帰りましたよ。

P215

これに関しては、当然イサトにもいい分があるだろう。(略)

ーその日演奏が終わって、楽屋へ帰ったら怒られたん。「なんであの曲をガットで弾かんかったんや」って。すったもんだの挙句「お前やめ!」って言われたから、売り言葉に買い言葉やから「ほんなら、やめます」ってね。
(略)アマチュア時代からガットはイヤやったんや。(略)我慢してやっていたんやけど。その日はちょっと反逆してやろうかと思って(略)
それで反逆したら、終わって怒られたわけよ。(略)で、その日に帰ってしまったからね。(他のメンバーは)全然知らん顔やったな(笑)。冷たい奴らやなって(苦笑)。

P215-P217

イサトは風船をやめるとすぐに、金延幸子、松田幸一、瀬尾一三と一緒に秘密結社○○教団「愚」を結成する。シングル盤『あくまのお話/マリアンヌ』が69年10月にURCから出るのだが、なんとその『あくまのお話』は西岡が提供した曲なのである。(略)
西岡の記憶ではイサトは大阪に帰ってからしばらくして西岡を訪ねて(略)グループをやることを、ちゃんと西岡に報告しに来たと回想する。その時に曲を頼まれたらしい。
(略)「(いきさつ上風船に戻るのは)無理だったけど、人間的としてはイサトに問題はないから。だから、すぐに新しいグループ作って、イサトにとってはよかったなぁって思っていましたよ」

P221-P222

風船はその後新しいギタリストを迎えて活動を続け、1972年8月31日に解散した。
東京・日比谷野外音楽堂の『ゲームは終わり 追い出しコンサート』には、イサト氏も参加した。

現在(出版当時)中川イサトは、新生五つの赤い風船として西岡と一緒に活動をしている。

P223

先の訃報記事には、実は『風船のメンバー』と紹介されている。

イサト氏にとって(最初の)風船は大切な存在だった。
当時を振り返って、こう語っている。

-風船って、形決まってるやん。あまり即興とか出来ないやん。抜けてから自由になって、相当いろいろな音楽聴いたんやなかったかな? 風船やってる時って、PA(電気的な音響拡声装置)とかなかったやん。そやから右手でしっかり弾かんと音拾ってくれへんやろ。とにかくステージでもマイク1本での勝負やから。環境が悪かったから、反対にずいぶん鍛えられたんやな。ラッキーやったな。

P223


装丁家・菊池信義氏

書籍のデザインの第一人者として知られ、俵万智さんの歌集「サラダ記念日」などを手がけた装丁家、菊池信義(きくち・のぶよし)さんが3月28日、心不全で死去した。78歳だった。
中上健次や古井由吉の作品、講談社文芸文庫など、多彩で立体的な独特のデザインで知られ、手がけた本は1万5千冊を超える

朝日新聞2022年4月9日朝刊(抜粋)

2019年に菊池氏のドキュメンタリー映画『つつんで、ひらいて』(広瀬奈々子監督)が公開された。

1冊の本の装丁を巡り、あらゆる方法を模索する。
デザインでは文字の位置や大きさをミリ単位で調整し、時には文字同士のバランスを調整するため1文字だけ大きさを変えたりもする。
デザインだけでなく、紙の材質や印刷色、スピン(書籍についているリボン状のしおり紐)、製本の仕方、帯の掛け方など、仕事は多岐に渡る。

デザインは今やほとんどがコンピュータで行なうが、菊池氏は手作業に拘る。
映画の冒頭、彼は印刷した紙をくしゃくしゃに丸め、それを伸ばしてコピーし、コンピュータの演算では出せない文字の荒れを生み出す。

冒頭のシーンについて、コラムニストの中野翠氏がこの映画のパンフレット(菊池氏自身が装丁している)に感想を書いている。

あ、そうか。その本のタイトルと内容にふさわしい字体を求めて、わざと活字を荒らしてみたところなのだ。既成の活字ではどうにもピタッと来なくて、思いついたことなのだろう。こういう手もあるのね。面白いなあ。
その少しあとの、活字見本で選んだ字をコピーし、切り貼りし本の見本を仕立てていく場面も楽しい。紙、ノリ、ハサミ。そしてカラー・チャート(色見本)。そしてカラフルなスピン(略)本造りの楽しさが湧きあがって来る……。コンピュータにこんな「手の歓び」はあるだろうか?

菊池氏の「手の歓び」へのこだわりについて、自身の本も何冊か菊池氏に装丁してもらっているという作家の平野啓一郎氏が、映画のパンフレットにこう寄稿している。

映画(略)の中でも、監督が「受注仕事」についてどう思うかを質問する場面がある。それに対して、菊池さんは、創作に於ける「他者性」と「関係性」の重要さを強調する。
(略)自分は「こさえる(こしらえる)」という言葉が好きだ、なぜならそこには、誰かのためという「他者性」があるから、と語る(略)

その菊池氏の装丁の発想はどこから生まれてくるのか?
映画の中で彼は、『(書かれた)テキスト』だと答える。

菊池氏は装丁の理想は『白と黒。墨一色でいい』と考えている。
しかし、実際はそうならない。
それは作家や出版社の意向ではなく、『テキストそのものが拒否する』と言うのである。

菊池氏の発想の出発点が「テキスト」であることは、彼の事務所から独立した、謂わば弟子にあたる人気装丁家・水戸部功氏(マイケル・サンデル氏の『これから「正義」の話をしよう 今を生き延びるための哲学』(早川書房)などを手がけた)との会話からも窺える。
水戸部氏が手掛けた新しい装丁を見て、帯のアイデアに感心しながらも、『テキストから出てきた感じではなく、あくまでも「面白いだろ」「こんな帯、誰も作ったことがないだろう」っていう(自己顕示欲)』と厳しく指摘するのだ。

菊池氏は『本は小説(テキスト)の身体からだ』だという。
「その内面(テキスト)が要求するピッタリの身体」を拵えるのが装丁家としての矜持なのだろう。

菊池氏は広瀬監督に「引退」について聞かれ、こう答えている。

仕事のやり方を変えることは決めました(略)。『もう引退します』って全てを人に投げられるのなら、病でフッと消えられるのなら楽なんだけど、そうはいかないんでね。体がこのぐらいの状態でついてくれば、2年掛けてフェードアウトって云うんですか……仕事に対する自分の関わり方を薄くしていって、次に自分に代わる方へ移行しておかないと……

パンフレットによるとこの映画は2015年から『3年ぐらいかけて』撮っていたという。つまり、先の菊池氏のインタビューは2018年頃に撮られたものだ。
それから約4年後に、菊池氏は亡くなった。


本稿は、書籍『関西フォークがやって来た! 五つの赤い風船の時代』と映画『つつんで、ひらいて』、及び、それらに対する私自身の感想を基に構成しています。
そのため、事実と違う可能性がある旨、ご了承ください。

謹んで、お二人のご冥福をお祈りいたします。


映画『つつんで、ひらいて』
2020年1月19日。@川越スカラ座



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