フォークシンガー・高田渡と酒

なぎら健壱著『関西フォークがやって来た!五つの赤い風船の時代』(ちくま文庫、2021年)の「プロローグ」を読んで、泣きそうになった。

西岡たかしは三鷹(東京都の多摩地域)という土地には全く縁がなかった。(略)
二〇〇五年四月十七日、高田渡の通夜が彼の住まいであった三鷹のアパートで行われると知らされた。西岡は悲痛な思いで新幹線に揺られて大阪から東京にやってきた。

昨日の十六日、マネージャーから高田渡が亡くなったことを報らされた。西岡は受話器を置いた後、しばし呆然として、「なんで?」と自分に問いかけるように電話機を見つめていた。
高田渡、享年五十六であった。

通夜の席にいたなぎら健壱が西岡を見つけ、『西岡さん、遠いところ、ご苦労さんです』と声を掛けた。
『遠いところ、そんなのなんでもないよ。だって渡が亡くなったんだよ』

西岡は一旦言葉を置くと、こう口を開いた。
「だって戦友だよ」
自分でも、咄嗟にそんな言葉が口をついて出るとは思ってもみなかった。
「えっ?」なぎらが訊き返した。
「だから、同じ釜の飯を食った戦友なんだよ」
西岡は、自分に念を押すようにそう言った。
「戦友だったんだよ……」


高田渡氏については、以前の拙稿でも何度か書いたことがある(拙稿については最後に)。
いずれも「喫茶店」の話だった。

たとえば、『喫茶店文化「東の風月堂、西の六曜社」』では、こう書いた。

高田氏というと「酒飲み」のイメージが強いが、「京都・六曜社三代記 喫茶の一族」によると、若いころは「下戸で、飲むのはもっぱらコーヒー。昼頃起きて、下宿から京都市内中心部まで歩き、「はしごコーヒー」をするのが日課だった」そうである。

冒頭で引用した西岡氏が、高田氏死去の後にリリースしたアルバム『storage ~ボクの見た時代~』(2005年)に、高田氏に捧げた「白湯」という曲が収録されている。
当時18歳でアマチュアだった高田氏が、初めて西岡の家を訪れた時の逸話を歌ったものだ。

紅茶を出そうかと たずねたら
白湯しか 飲まんと いいだした
「親父の 二の舞 ご免だ」と
アル中で 売れない 詩人だったと…
(西岡たかし「白湯」。アルバム『Storage ~ボクの見た時代~』に収録)


しかし、先述したが高田渡氏といえば「酒飲み」のイメージである。
事実、ライブでも楽屋入りの前から飲み始め、泥酔状態でステージに上がり、「嘔吐」や「居眠り」などの逸話が伝説のように語られているし、実際生で見たという証言者が多数いる。
その中の一人である、フォークシンガーのなぎら健壱氏が、自身の著書『高田渡に会いに行く』(駒草出版、2021年。以下、「会いに行く」と表記。以降の引用は全て「会いに行く」から)でこう振り返っている。

あたしは何回か見てるんだけど、ライブハウスで一番困ったのは(江古田の)『マーキー』で、酔っぱらって、最後イスからずり落ちて床に座って、ギターマイクで歌いだした。そのとき『マーキー』のオーナーの上野さんとあたしで渡ちゃんをステージから運び出して、楽屋に連れて行って寝かしたんですよ。

ちなみにそのステージは結局、なぎら氏が客のリクエストに応えるかたちで進めたそうだ。


下戸でコーヒーや白湯しか飲めなかった、しかも、『アル中だった親父のようになりたくない』と思っていた高田氏が、なぜ酒飲みになってしまったのか。

「会いに行く」では、シンガーソングライターで医師でもある藤村直樹氏が書いた『高田渡読本』が引用されている(途中の中略も、原文のママ)。

1971年の初め頃、ぼく(藤村氏)がフォーク・シーンから離れ医学生に戻る頃だろうけど、(中略)相変わらず昼間からウイスキーを呑んでいると、渡が「俺にもちょっと味見させろ」と言った。そして「うん、これはコーヒーみたいにうまいな!」といったのが、彼が酒を呑みだした初めではないかと思う。あるいは、京都のアサヒ・ビヤホールでぼくがすすめて呑んだビールが最初だったかもしれない。
いずれにせよ、京都時代の渡は、すでに大酒のみであったぼくからみれば、まだ酒に関しては初心であったし、酒を呑まない渡に酒を教えてしまったのがぼくであることは事実だろう。

藤村氏は、晩年の高田氏の主治医でもあった。
酒で身体を壊すと藤村氏に診てもらい、体調が戻れば調子に乗ってまた酒を飲むを繰り返し、とうとう亡くなってしまった高田氏。

渡ちゃんの弔いのときに藤村先生が号泣して「俺が悪かったんだ」って言ってましたね。それからすぐに藤村先生も亡くなっちゃったんだけど……。


京都から東京に拠点を移した高田氏は、亡くなるまで吉祥寺で暮らした。
吉祥寺に「いせや」という有名な焼き鳥屋があって、高田氏はそこに入り浸っていた。映画『タカダワタル的』(タナダユキ監督、2004年)でも、開店前の仕込み中のお店で、当たり前のように飲んでいる姿が映っている。

息子でミュージシャンの高田漣氏がこう証言している。

冗談みたいな話ですけど、携帯電話とか持っていなかったから、仕事の電話とか『いせや』に連絡がきてましたからね(笑)。そうすると『いせや』のおやじさんが「渡さん!仕事の電話だよ!」って。たぶん、友恵さん(引用者註:渡氏の再婚相手。漣氏の実母ではない)が、仕事の電話がくると「いま、『いせや』にいるはずだから電話してみて」って言ってたんでしょうね。あげくには『いせや』からお中元とかお歳暮がきてましたからね。どんな付き合いなんだっていう(笑)

その漣氏から見た父親は、『飲兵衛だと思われがちですけど、酔っているだけで、飲んでいる量は大して多くない』『高田渡は気のいい飲兵衛の親父みたいなイメージがあるかもしれないけど、真逆』と言う。
確かにそうなのかもしれないが、たとえ金を払って観に行ったライブで彼が泥酔して満足に歌えなくても、悪く言われることは少ないような気がする(息子の漣氏からすると『そういう客が高田渡を甘やかした』となるのだが)。

それは高田渡氏が『人たらし』だからだと漣氏は言う。

生前に関わったことがある人はみんな、こんな人に対して腹が立つことがあるかっていうくらいの体験が一度ならずあるんですよ。だけど、実際いなくなってみると、面白かったなって言われる。(略)僕にもいっぱいあるし、深く関わった人はみんなあるんです。でも、なんかいい人だったような気がするんですよ。全然いい人じゃないのに(笑)。だけど、親父の話をしていると、思わず笑っちゃうというか。ずるいですよね。


引用してきた『高田渡に会いに行く』は、なぎら健壱氏が高田氏と縁のあった人たちに「会いに行」き、氏の思い出を語り合った本である。
なぎら氏はあと書きにこう記している。

高田渡は刺激的で魅力的な人物だった。それだからといって「良い人」「好い人」「善い人」をイコールとすることは早計である。(本文に登場する)シバの言葉、「高田渡は高田渡をやっていたんだ」はまさに高田渡をいい当てた言葉である。
(略)
ず~っと寂しかったんだと思う。だからずっと人と一緒にいたかったんだろうな。
みんな結構迷惑かけられているのに、でもみんな渡が好きなんだよ。
「高田渡」をやって、死んでいったなと思うな。

『自身がやっていた「高田渡」』を愛したファンが『対談で語られる「高田渡」』に幻滅するかもしれないとしながら、やはり酒を愛するなぎら氏はこう記す。

そうした幻滅に通じるその箇所のほとんどが酒がらみの話である。総てを酒のせいにしてしまうことは簡単でもあるし、愚かしいことでもある。だいいち酒が可愛想であるー飲むのは人間である
他人から見れば酒を飲んでの過誤は喜劇に見えるかもしれない。だが単純に喜劇としてしまうことで、そこに高田の悲劇があった。酒がやらせているんだ。酒がなければどうにかなる。そうした楽観した、あるいは傍観した、他人の目が生んだ悲劇である。しかしそれが高田渡であり、実際そうした生き様を選んだのは誰あろう、高田本人である。しかし私は幻滅をしない。人間、高田渡が好きだったからである。
(※太字、引用者)

高田渡氏は、2005年4月4日、北海道白糠町でのライブ終了後に倒れ、釧路市内の病院に入院。同月16日午前1時22分、入院先の病院で心不全により56歳という若さで旅立った。

だから、今年(2021年)は彼の十七回忌だった。


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