なぎら健壱著『関西フォークがやって来た!五つの赤い風船の時代』(ちくま文庫、2021年)の「プロローグ」を読んで、泣きそうになった。
通夜の席にいたなぎら健壱が西岡を見つけ、『西岡さん、遠いところ、ご苦労さんです』と声を掛けた。
『遠いところ、そんなのなんでもないよ。だって渡が亡くなったんだよ』
高田渡氏については、以前の拙稿でも何度か書いたことがある(拙稿については最後に)。
いずれも「喫茶店」の話だった。
たとえば、『喫茶店文化「東の風月堂、西の六曜社」』では、こう書いた。
冒頭で引用した西岡氏が、高田氏死去の後にリリースしたアルバム『storage ~ボクの見た時代~』(2005年)に、高田氏に捧げた「白湯」という曲が収録されている。
当時18歳でアマチュアだった高田氏が、初めて西岡の家を訪れた時の逸話を歌ったものだ。
しかし、先述したが高田渡氏といえば「酒飲み」のイメージである。
事実、ライブでも楽屋入りの前から飲み始め、泥酔状態でステージに上がり、「嘔吐」や「居眠り」などの逸話が伝説のように語られているし、実際生で見たという証言者が多数いる。
その中の一人である、フォークシンガーのなぎら健壱氏が、自身の著書『高田渡に会いに行く』(駒草出版、2021年。以下、「会いに行く」と表記。以降の引用は全て「会いに行く」から)でこう振り返っている。
ちなみにそのステージは結局、なぎら氏が客のリクエストに応えるかたちで進めたそうだ。
下戸でコーヒーや白湯しか飲めなかった、しかも、『アル中だった親父のようになりたくない』と思っていた高田氏が、なぜ酒飲みになってしまったのか。
「会いに行く」では、シンガーソングライターで医師でもある藤村直樹氏が書いた『高田渡読本』が引用されている(途中の中略も、原文のママ)。
藤村氏は、晩年の高田氏の主治医でもあった。
酒で身体を壊すと藤村氏に診てもらい、体調が戻れば調子に乗ってまた酒を飲むを繰り返し、とうとう亡くなってしまった高田氏。
京都から東京に拠点を移した高田氏は、亡くなるまで吉祥寺で暮らした。
吉祥寺に「いせや」という有名な焼き鳥屋があって、高田氏はそこに入り浸っていた。映画『タカダワタル的』(タナダユキ監督、2004年)でも、開店前の仕込み中のお店で、当たり前のように飲んでいる姿が映っている。
息子でミュージシャンの高田漣氏がこう証言している。
その漣氏から見た父親は、『飲兵衛だと思われがちですけど、酔っているだけで、飲んでいる量は大して多くない』『高田渡は気のいい飲兵衛の親父みたいなイメージがあるかもしれないけど、真逆』と言う。
確かにそうなのかもしれないが、たとえ金を払って観に行ったライブで彼が泥酔して満足に歌えなくても、悪く言われることは少ないような気がする(息子の漣氏からすると『そういう客が高田渡を甘やかした』となるのだが)。
それは高田渡氏が『人たらし』だからだと漣氏は言う。
引用してきた『高田渡に会いに行く』は、なぎら健壱氏が高田氏と縁のあった人たちに「会いに行」き、氏の思い出を語り合った本である。
なぎら氏はあと書きにこう記している。
『自身がやっていた「高田渡」』を愛したファンが『対談で語られる「高田渡」』に幻滅するかもしれないとしながら、やはり酒を愛するなぎら氏はこう記す。
高田渡氏は、2005年4月4日、北海道白糠町でのライブ終了後に倒れ、釧路市内の病院に入院。同月16日午前1時22分、入院先の病院で心不全により56歳という若さで旅立った。
だから、今年(2021年)は彼の十七回忌だった。