映画『いとみち』

ま、真逆だ……
「服のサイズは5号、泣き虫」ではなく、「服のサイズはLL、泣けない」と全くの真逆なのに、スクリーンに映るメイド服姿の16歳の少女は、まぎれもなく、あの「相馬いと」である!
そのことに何より感動した。

越谷オサム著の同名小説(新潮文庫。以下、原作)を映画化した『いとみち』(横浜聡子監督、2021年。以下、本作)の主人公は高校1年生の相馬いと(駒井蓮)。
いとは幼い時に母を亡くし、父親の耕一(豊川悦司)と母方の祖母・ハツヱ(西川洋子)と暮している。
津軽三味線の名手であるハツヱの影響で、いとも三味線が得意。
だが、ハツヱからは三味線だけでなく、同級生にも通じないほどの「キツイ訛り」の影響も受けてしまったせいで、いとは他人と会話することに怯えている。当然、友達もいない。
いとは亡き母親からも影響を受けており、それが三味線を弾くときの格好。
大きく股を広げ、陶酔しきった変な表情で三味線を弾く自身の姿が恥ずかしくなり、三味線を弾かなくなってしまう。
三味線から逃げる口実からか、いとは会話が苦手なことも忘れ、何故か青森市唯一のメイドカフェ(といっても「東京・秋葉原」を連想させるそれではなく、本格珈琲と自慢の手作りアップルパイを提供する喫茶店で、ウェイトレスの格好がメイド服、という程度)「津軽メイド珈琲」でバイトを始める……
ストーリーを簡単に説明すると、こんな感じである。

……本稿は「感想」というか、どちらかというと、自己流の「解説」になっている旨、予めご了承を……


小説と映画の違い

原作は全3巻だが、本作は1巻目をベースに、若干2巻目(二の糸)のエピソードを織り交ぜて構成されている。
大小、個々のエピソードや繋がりは原作とは違い、どこがどう違うかを挙げていけばそれなりの文章量になるだろう。
しかし、全体を通しての物語の流れは原作と大きく違わず、逆に「よくまとめた!さすが横浜監督!」と感心するほどのスゴ技である。

大きな違いは、冒頭に書いた主人公・相馬いとのキャラクターだが、その理由は、横浜監督が原作を映画化するに当たって、いとという少女像を、「低身長のロリメイド」にではなく、「キツイ訛りや母親がいないことがコンプレックスのコミュ障」に見出したから、と考えられる。
そのことにより、原作と本作は全く異なる雰囲気の物語になっている(だから良し悪しではなく、合う合わない(好き嫌い)の意味で原作ファンの賛否は分かれるかもしれない。私はというと……本稿を読めばわかる)。


コミュニケーションに多少の問題を抱えた人たちが繋がる映画

その「いと像」は映画全体に及んでいて、だから、本作は「いとを中心にした、コミュニケーションに多少の問題を抱えた人々の繋がりの物語」になっている。

「繋がり」は大きく分けて、「家族」「バイト先(津軽メイド珈琲)」「友達」の3つである。


家族間のコミュニケーション

相馬家は元々ハツヱの家でもあるが、彼女の娘(いとの母親)が亡くなった後も娘婿の耕一がそのまま住んでいて、少しイビツな関係にある。
しかも、東京出身の耕一はハツヱだけでなく、彼女の影響を受けたいととの会話もままならない。会話だけでなく、高校生になった娘との接し方にも戸惑っている。

この家族設定について、横浜監督はパンフレットのインタビューにこう答えている。

最初のシナリオでは原作に沿って、耕一も青森の人、台詞は津軽弁で書いていたんです。でも豊川さんに演じてもらえることになった時、東京から来た異邦人というか、青森という土地に根がない人間のほうが面白いんじゃないか、と。ある種"旅人"みたいなイメージが、私の中で豊川さんには強いんですね。

祖母ハツヱは、原作では耕一の母親ですけど、映画では耕一の亡き妻、いとのお母さんの母親という設定に変えました。血がつながっていない人たちが、家族として一緒に暮らしている。耕一といとは実の父娘ですけど、お互いの言葉がなかなか通じ合わない。そういう家族のズレだったり、ひとりの親としての綻びや足りてなさが、いととの関係を通して耕一自身に突きつけられる。出自も違うし、言葉も時折通じないけど、「なぜか一緒に居る」っていう共生の在り方のほうが、家族の面白さや不思議さについて語れる気がしたんです。

原作と異なり、いとがメイドカフェでバイトを始めたことは早々に耕一に知られるが、耕一は咎めない。
しかし、ある事件をきっかけに、メイドカフェに対する偏見をぶちまけ、単に「理解力のある父親」を演じていただけだったことを露呈してしまう(それを聞いたいとの怒りの表情は、観客全員を凍りつかせるほどの迫力。父親に反抗する娘の表情は数多の映画で撮られているが、いとの表情は歴代ベストテンに入るかもしれない)。

ハツヱも平然と暮らしているようでいて、突然三味線を弾かなくなったいとの変化に戸惑い、娘婿への遠慮も感じられる。

いとも、2人への対応が我儘な反抗だと気づいているし、それで2人に心配を掛けているのも理解しているが、それでもどうにもできない自身の気持ちを持て余している。


「津軽メイド珈琲」のコミュニケーション

原作では様々個性的な常連客とのコミュニケーションの中でいとが成長していくが、本作ではいとを含めた従業員4人の日々の仕事の関係性だけで描いている。

基本的にシンプルなお話ですし、映画として「尺は長くしたくない」と最初から思っていたんですよ。それも考えると、原作に書いていた常連のお客さんそれぞれのエピソードは諦めて、従業員群像に絞って集中しようと。
成長物語として見た時に、実はいとが「ここ」で成長するというハッキリしたものは提示していない。何気ない日常のやり取りの中で、ディテールを見せていくしかない。その意味では同性の先輩である幸子と智美、特に一対一になった時のいととの関わりあい方というポイントを強くしました。

本作ではいと以外の従業員もコミュニケーションに多少の問題を抱えている。
原作ファンは、「陽キャ」のエースメイド・福士智美(横田真悠)と「応対がスマート」な店長・工藤優一郎(中島歩)がコミュニケーションに問題があるように変更されているように思うかもしれないが、実はそうではない。
智美はメイドになる前の「陰キャ」そのまま(太ってはいないが)、工藤店長は東京でボロ雑巾のように扱われ人間不信に陥ったままの状態で登場する。ともに原作に描かれており、これをチョイスしたのも横浜監督のスゴ技である。

ここで重要なのは、頼れるメイド長・葛西幸子(黒川芽以)の存在で、原作でも示唆されているが、本作ではさらに幸子の「母親的役割」が強調されている点である。
原作の「津軽メイド珈琲」は、工藤店長を父親、幸子を母親とした「疑似家族」を形成しているが、工藤店長は本作でその役割を失っている。

つまり、本作においては、いとにとっての「本当の家族」「疑似家族」が、「父子家庭」「母子家庭」と欠けたまま対になるように描かれている。


「友達」のコミュニケーション

上述したような横浜監督の「尺は長くしない」「一対一になった時のいととの関わりあい方」は、友達関係にも通じており、原作では3人いる親友を伊丸岡早苗(ジョナサンゴールド)1人に絞り、さらに、原作の社交的な性格から、いと同様、友達がいない人物に変更している。
ただし、「友達がいない」といっても、早苗は「友達を作らない」と思っていて、「友達ができない」と思っているいとと区別されている。

早苗「昔友達と喧嘩してさ、元に戻ろうと思ったんだけど、なんがいつも通りやってもうまくできなくて、そっから喋るのも喧嘩するのも怖ぐなった」
いと「喋れば喋るほんどひとりさなる」

パンフレット所収の「決定台本」より

この後、2人はちょっとした喧嘩(そこに原作『二の糸』での、貯めたバイト代を貸すエピソードも使われる)をして双方が相手を言葉で傷つけてしまうが、ともに許し合うことにより友情が深まっていく。
それは、上述のセリフにある、2人が抱く(言葉を介した)コミュニケーションへのトラウマが払拭されるからで、それによりいと(と早苗)は成長する。


観客とのコミュニケーション

青森県を舞台にした本作は、全編津軽弁、しかも前述のとおり、いととハツヱは地元の人にも通じないくらい訛っている……にも関わらず、一切字幕が出ない。時折、言っていることがわからなくなる。
下手をすると本作自体が、上述のいとのセリフのように『喋れば喋るほんどひとりさなる』恐れがある。
だが、実際はそうならない。
それまでの流れや会話の内容、登場人物の表情や動作などから、大体のニュアンスは掴めるし、それで十分伝わる。
本来、コミュニケーションというのは、そういうものだと思う。

それにしても、本作で聞ける津軽弁は、何とも愛らしい。
特に、頻出する「かに」は"めごい"。


物語の軸は「母親」

本作は、いとが亡き母親の面影を求める物語でもある。
いとは度々、縁側で三味線を弾く母親の夢を見る。

冒頭に書いたが、原作では泣き虫のいとは本作で泣かない(泣けない)性格に変わっている。
いとが幸子に告白する。

いと「……かっちゃ死んだの、わあ幼稚園の頃で。かっちゃさ髪ば梳いてもらったんです。はっきり覚えでるのそれぐらいなんです。人さ可哀想って思われるのが嫌で、絶対泣がねえって思ってたっきゃ、いつの間にか涙は出なぐなってしまいました」

本作でも原作と同様、幸子は母親的存在ではあるが、上述のとおり、それは「津軽メイド珈琲」の関係性の中だけに限られている。
その関係性が変わるのは、物語の最終盤。
原作同様、閉店の危機に陥った「津軽メイド珈琲」を救うべく、いとがお店で三味線を弾くことになり、その出番の直前、幸子はいとの髪を梳かす。
そのシーンを観て、原作ファンはこの文章を思い浮かべたことだろう。

かっちゃだ。
いとはそう思った。この人は母親だ。

『いとみち 二の糸』「夏」

髪を梳いてもらいながら、いとは声も出さず、静かに涙を流す。
とても美しく感動的なシーンだった。


センスある「ユーモア」が盛り沢山

登場人物の誰も、面白いことをしたり、ギャグを言ったりしない。
なのに、観客から度々笑いが起こる。
それは、全編通して、横浜監督のセンスある「ユーモア」が溢れているからだ。

特に、とぼけた味わいのハツヱは最高にチャーミングだ。
お掃除ロボットを操作したり、いとや耕一を嗜めたりする姿に観客は思わず笑ってしまう。

それ以外にも、本作にはふんだんにユーモアがちりばめられている。

何故、店長が「コーヒーを自分で淹れさせて欲しい」と懇願するいとを拒否するシーンであんなに笑えるのだろう。
何故、おどおどしながら娘のバイト先に潜入する耕一の姿であんなに笑えるのだろう。
何故、いとと耕一の父娘けんかで、あんなに笑えるのだろう。

個人的に好きなのは、「津軽メイド珈琲」でハエが飛んでいたシーン。「あっ、妖精さんだ!待てぇ~」と可愛くハエを追うのが智美ではなく幸子というのは、素晴らしいセンスだと思う。


三味線の音も迫力がある。特に、ハツヱの弾く三味線にいとが音を重ねるシーン。音の厚さと迫力に鳥肌が立った。
もちろん、クライマックスのいとの演奏シーンは圧巻で、息を呑むほど素晴らしい。

とはいえ、本作の魅力は、何といっても、全編で喋られる軽やかな津軽弁に尽きる。
青森や東北地方に縁がある人もない人も、帰る故郷がある人もない人も、本作で津軽弁を聞けば、いとの「めごさ」も相まって、たちまち懐かしい気持ちになり、「やっぱり日本っていいなぁ」と、郷愁に浸ってしまうだろう。

私は青森には行ったことがないが、コロナ禍が過ぎ去った暁には、是非かの地を訪れて、三味線の生演奏を聞いてみたいと思っている。

(2021年6月30日。@新宿武蔵野館)


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