映画『窓辺にて』を観ながら思った取り留めもないこと…(感想に非ず)

窓ガラス越しに外を見ながら思う。
今、この窓を開けて外に出るとどうなるのだろう?
それは新しい自分への覚醒だろうか?
宛てのない逃避、或いは逃亡だろうか?
それとも、「死」だろうか?
ガラス窓は鍵を開ければ容易に開き、そこから外に出ることは簡単だけれど、ガラス窓を隔てた外側がたとえ「新しい自分への覚醒」だとしても、きっとガラス窓の鍵には手をかけない。
『せっかくのチャンスだったのに』
『俺もそう思ったんだけどね(略)でもいいんだ。もっと大切なものがあって』
と言ってみたものの、窓ガラスで隔てられた「こちら側」が決して良いわけでも、大事なわけでもない。
『ばかだね、やっぱ。知ってたけど(略)やってみたらいいじゃん』
『やってみなくてもわかるんだよ』

映画『窓辺にて』(今泉力哉監督、2022年。以下、本作)には、今泉作品にしては珍しく、とてもわかりやすい明確な「問いかけ」が貫かれていた。

手放す(或いは「変わる」と言い換えても良い)ことは悪い事なのか?

考えてみれば、ガラス窓というのはとても不思議で、こちらから向こうが見えて、向こうからもこちらが見えているのに、その二つの世界は完全に隔てられている。こちら側で暗い話をしていても、向こう側で笑い合っている人たちが見えたりするし、明るい光も差し込んでくる。

たとえば、フリーライターの市川茂巳(稲垣吾郎)が、女子高生作家・久保留亜(玉城ティナ)とパフェを食べているテーブルの横は、大きなガラス窓だ。
茂巳の妻・紗衣(中村ゆり)と不倫している流行作家・荒川円(佐々木詩音)が、その関係を清算しようとしているホテルの部屋では、ベッドに座った紗衣を明るい光が照らしている。
ガラス窓を開ければ、或いは壊せば、何かが変わるかもしれないのに、誰もそこから出ようとしない
『せっかくのチャンスだったのに』も拘わらず、(今の関係を)手放すことが怖い。怖いのは、大切であり惜しいからと言い訳しながらも実は、手放す行為に及んでしまった自身が引き受けなければならなくなる「(手放したモノに対する)罪悪感」によるものだ。
だから、『やってみなくてもわかるんだよ』とうそぶき、行為に及ばない。

一方、プロスポーツ選手の有坂正嗣(若葉竜也)と人気モデルの藤沢なつ(穂志もえか)が不倫の逢瀬を愉しむ部屋のカーテンは閉じられ窓が見えない。なつは一度不倫関係を清算しようとするが、閉じられたカーテンに阻まれその関係の外に出られないーつまり、手放せないー。
妻にバレていないと信じ切っている正嗣は、出る(手放す)必要がない
茂巳と紗衣が帰ってくる部屋のカーテンが閉じられているのは夜だからで、妻の不倫を知ってもショックを受けなかった茂巳は、カーテンの向こうの窓を開ければ出られるのに、気づかないふりをしているーつまり、手放すことを先延ばししているー。

その中で唯一、ガラス窓を隔てた外側ーつまり、手放すことーに自覚的なのが、山奥に住む留亜の叔父・カワナベ(斉藤陽一郎)-彼の親族は、下北沢で古書店を営んでいたに違いない-だ。彼は、大きなガラス窓で隔てられた室内で静かに読書に耽る留亜を見ながら、一緒に外側にいて誰にも言えなかったことを打ち明けた茂巳に対し、手放すことを肯定してみせる。

つまり本作は、「罪悪感」によって、手放すこと全般に対して思考停止している大人グループの中心にいた茂巳が、「罪悪感」を抱くほどに人生を生きていない若者である留亜とその彼氏・優二(倉悠貴)に加え、手放すことに希望を持つカワナベ(留亜に多大な影響を与えた人物であることは明白だ)と出会うことによって、(正嗣を除く)大人グループが各々のガラス窓を自覚する、という物語だ。
と、本作を観ながらずっと考えていた。

ずっと考えていたことは、もう一つある。

文学(を含む芸術)は、一体誰を救うのだろう?

建前上は読者(受け手)を救うのだろうが、留亜は明らかに自身を救済するために小説を書いている。
荒川円が『永遠に手をかける』を書いたのも、きっと自己救済が目的だ。
茂巳が小説を一冊しか書かなかったのは、ある意味において小説が自分を救ってくれなかったことに絶望したからではないか。
編集者の紗衣は、茂巳が一冊しか書けなかったことに加え、今の担当である荒川に対しても彼が書きたいものと違う作品を強要していることに罪悪感を覚え、文学による救済自体を信じられなくなっている(故に荒川と肉体関係になったのではないか。結局、官能でしか救済できない、と。だからこそ、ホテルで関係を解消しようとした荒川を抱きしめたときの、あの表情になるのだ。あの表情は鳥肌が立つほど凄かった)。


それにしても、稲垣吾郎という人は凄い。
本作序盤の寿司屋のシーンで、正嗣の話に何気なく相槌を打つ彼に驚いた。それが意図した演技なのかどうか知る由もないが、とにかくその何気ない相槌でさえ観客を惹きつけてしまうのが、"スター"というものなのだろうと得心した。
昔、「どの役を演じても"キムタク"にしか見えない」という言葉が木村拓哉を批判する文脈で使われていたが、私自身はその言葉を賞賛の意味に捉えていて、当時の彼らのヒット曲になぞらえて「それが、"オンリーワン"というものではないか」と思っていた。
稲垣吾郎は別の意味で"オンリーワン"で、それがつまり、「どんな役を演じても、"そういう人"に見える」という圧倒的な説得力ではないか。

中村ゆりという俳優はとても稀有で、不倫など「現代の性のモラル」から少し外れている役も多いが、それが完全な逸脱にならず、リアリティーがありながらも下品に落ちないのである(逆に崇高にさえ感じられるときがあり、それが上述した鳥肌ものの表情だったりする)。
たとえば、2016年に上演された舞台『焼肉ドラゴン』(チョン 義信ウィシン作・演出)で演じた梨花もそうだった(ちなみに、2022年11月11日放送のTBS『A-Studio+』のゲスト・井上真央が、映画『わたしのお母さん』(杉田真一監督、2022年)の主演に抜擢されたのは、鄭義信自らが監督を務めた映画版『焼肉ドラゴン』(2018年)で演じた梨花がきっかけだったと証言していた。確かに、『もぉええ』という腹の底からの痛みの声は、それまでの彼女にはなかったものだ。全くの余談)し、2019年に上演された舞台『まほろば』(蓬莱竜太作、日澤雄介演出)で演じたキョウコは未成年のときに父親が誰かわからない(というか、誰にも明かしていない)娘を出産した役だった。
ドラマだと、たとえば、NHK BSプレミアムで2018年に放送された『弟の夫』では、離婚した夫と昼間からラブホテルに行く、といった役柄だった(そこだけ抜き出してこう書くと、語弊があるかもしれないが……)。
いずれも、(私見としては)現実と虚構の絶妙な狭間で下品に落ちない稀有な演技だった。

そんなことをつらつらと思いながら、本作を観ていたのだが……


そういえば、先にカワナベという名前を出したが、主要な登場人物にはフルネームが与えられている本作において、彼だけカタカナだったりする。

そういえば、若葉竜也が演じるのは有坂正嗣で、彼の妻の名前は「ゆきの」だが、どこかで「」という名前を聞いたことがある。それは穂志もえかが演じた役の名前だったが、本作で彼女は藤沢なつという正嗣の不倫相手の役だった。その「」はフルネームを川瀬雪といい、確か若葉竜也が演じる荒川あおという役名の男と恋人関係(だったこともある……)だった。

そういえば、荒川といえば、紗衣と不倫関係にある人気作家の名前が荒川円だった。

そういえば、冒頭の二重鍵括弧部分のセリフは、パンフレットに添付されている、留亜の文学賞受賞作『ラ・フランス』にある主人公と川瀬という男の会話を引用している。

そういえば、恋人の優二を演じている倉悠貴は、荒川青が出(る予定だっ)た映画のカメラマンを務めていなかったか?

……取り留めもなく、何を考えているのだろう……というのは、本作の正嗣と藤沢なつのシーンを観て嬉しくなったからで、本作パンフレットを開くと、

若葉さんには、作家・荒川円の役とマサのとっちを振ろうかって相談してたんですよ。(略)本来は、「荒川円」役のほうに親和性があったというか。でも結局、若葉さん本人がマサのほうに興味を示したんですよね。

穂志もえかさんも、志田未来さんが演じたマサの妻・ゆきの役と「なつ」のどっちがいいかな?って相談したりしていて。でも本人が「なつ」に興味を示したんですね。その結果、前々からご一緒したかった志田未来さんにゆきの役を振れたので、なんだか全部うまくいきました。

と今泉監督が答えていて、それを読みながら、実は志田未来演じる「ゆきの」は、夫・マサの不倫を知ってたんだよなぁと思い返した。
最終盤、茂巳がマサの家を訪ねた場面で、一人だけ状況を知らない(知らされていない)マサの能天気な声を聞きながら娘の相手をする彼女のバックショットがそれなりの尺で映し出された後、何もかも知っているのに何食わぬ無邪気な顔で荒川円の『永遠に手をかける』を紹介する藤沢なつのテレビ番組を実家で見ている紗衣(この場面はもちろん、中盤に茂巳が一人でここを訪れたときも、外に通じる大きなガラス窓を背にして座っていた)……という一連のシーンに、今泉監督らしさを見たような気がした。

と、ここまで考えて、高校生作家の久保留亜(玉城ティナ)を忘れていることに気づいた。というか、今泉作品における若葉竜也と穂志もえかのシーンを考えていたので気づかなかったというべきか。

茂巳は『ラ・フランス』の登場人物のモデルに会わせるという名目で留亜に引っ張り回されるのだが、それは、彼が受賞会見の場でモデルがいるのでは、と具体的に指摘したことに端を発している(1回しか観ていないのでうろ覚えだが……)。

「モデルがいることのリアリティー」について、読者側である我々は『モデルとなった人物をよく知っているから、登場人物の性格や容姿などを細かくリアルに描写できる』からだと思いがちだが、小説家の保坂和志は『(そういう)意味ではない』と否定する。

むしろその反対で、実在する人物をモデルにすると、あっさり書いてもその存在感みたいなものが読者にちゃんと伝わるということなのだ。

保坂和志著『書きあぐねている人のための小説入門』
(中公文庫、2008年)

本作において、茂巳は『ラ・フランス』の登場人物のモデルとして優二を紹介されるのだが、これは実は、はぐらかしでも何でもなく、留亜自身は本気だったのではないか?

「なんか変な男とつきあってるんでしょ? 俺ともう会わない方がいいんじゃない、さしで。俺、嫌なんだよね。そういう嫉妬とかしてそうな馬鹿に嫌われるの」

久保留亜著『ラ・フランス』(興文文庫?)
(太字は引用者)

『あっさり書いてもその存在感みたいなものが読者にちゃんと伝わる』モデル。まさに、優二そのものではないか……なんてね。


メモ

映画『窓辺にて』
2022年11月12日。@TOHOシネマズ 錦糸町

土曜日の朝8:30上映回。20人くらいはいた。
中央線の人身事故の影響で総武線まで止まってしまい、間に合わないかもと焦った。

本文でも触れたが、ガラス窓というのは「隔てられてそのままでは行けない向こう側」が見える、という点で特異だ。
本作のタイトルに引っ張られ過ぎて勝手に思い込んでいるだけなのかもしれないが、ガラス窓は「別の世界への入り口」を暗喩している、かもしれない。

茂巳と紗衣の部屋の窓が映らないのは本文で触れたとおり夜だからで(ちなみに、1度観ただけなのでうろ覚えなのだが、茂巳が紗衣に浮気の話を切り出したとき、部屋のカーテンは開けられ、夜の空が見えていなかっただろうか?)、カーテンを開けた昼間は窓から明るい光が入っていた。つまり、ゆきのが昼間にこの部屋を訪れるシーンは意図されたもので、この部屋から窓が映らない自宅に帰ってゆくことによって彼女の選択を暗示していた、かもしれない。

紗衣の実家の大きなガラス窓も本文に書いたが、その窓を通って茂巳は出てゆき、そして、その窓を通って紗衣が帰ってきたと考えられる、かもしれない。

茂巳が留亜に呼び出されるラブホテルの部屋には窓がないが、代わりにシャワールームが透明ガラスで隔てられている。茂巳がベッドに潜り込んでしまうのは、彼が「ガラスに隔てられた向こう側="若さ"の世界に行く(戻る)意志がない」ことを意味し、つまり彼は、鞄に入れた未記入の離婚届を紗衣に差し出す罪悪感をちゃんと引き受ける覚悟があることを示唆している、かもしれない。

「かもしれない」と繰り返したが、一つだけ確かなことがある。
ファーストシーンとラストシーンは窓から光が射しこむ同じ喫茶店だが、ガラス窓を軸に両者の世界は反転している、というか、茂巳はガラス窓を開けて世界を超えたのだ。そのことは彼の指輪が物語っている(ちなみに、喫茶店で本を読む人のシーンで始まるのも、本文でごちゃごちゃ書いたことに通じる)。

(一応私が「取り留めなく思ったこと」という体裁なので、敬称略で統一しています。ご了承下さい)


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?