映画『天国か、ここ?』

天国か、ここ?』(いまおかしんじ監督、2023年。以下、本作)はとても不思議な映画で、どう説明すればいいか全くわからない。
それは、上映後のトークイベントに登壇した人々が「最初観たときは意味がわからなかった。何度か観て漸く『あぁ、こんなことかな……』と思えるようになった」といった主旨の発言をしていたことからもわかる(同席していたいまおか監督自身は「え、そうなの?」と少しショックを受けている感じではあったが)。
それでもあえて説明するなら、直截的な意味を持たないという点で「不条理劇」と云えなくもないが、「イメージビデオ」というのが個人的な感覚に近い。
とはいえ、本作には(支離滅裂とはいえ)ちゃんとした「ストーリー」がある(と書いて気がついたのだが、その舞台が『天国か、ここ?』とぼやかされているから、恐らく意味がわからないのではないか)。

川島伸夫(河屋秀俊)が缶チューハイ片手に海にやってくる。どうやら道に迷ったようだ。道端に「天国」と書いた紙が落ちている。「天国か、ここ?」酔った頭で考える伸夫。しばらく行くと妻の麻由子(武田暁)に出会う。「どうしよう」二人してうろうろしていると、知り合いの上野(水上竜士)に出会う。
上野は「ここは天国」と言い張る。さらに行くと今度は若い女・由美香(平岡美保)に出会う。由美香は、将棋教室に伸夫を誘う。喧嘩別れの二人。麻由子は「出雲大社はどこか?」と聞く変な中年男(佐藤宏)と出会う。伸夫がさらに歩いていると、麻由子の元旦那・猛(川瀬陽太)と出会う。猛は麻由子を残して死んだことが心残りだったと言って泣く。ようやく再会する麻由子と猛。10年ぶりの会話。「元気でた」笑顔で別れる二人。

公式サイトより
(俳優名は引用者追記)

本作は、川島がどこにいるのか、何故そこに麻由子や上野もいるのか、何故由美香と出会うのか、全く説明されない(『変な中年男』がここに入っていないのは、いまおか作品において彼はそういう存在だから)。状況のヒントとしては、「ここ天国」と書かれた紙と、猛が10年前に亡くなった麻由子の元夫だということだ。
音響についても、登場人物の声はエコーなどのエフェクトが施され観客の前面ではなく上部から発せられる。また、音楽も、映画やドラマなどでの宗教施設のシーンで用いられていそうな類型的な音楽が最初から最後まで途切れることなく流れている。
ということで、本作は「ここ天国」であることを示唆してはいて、恐らくそれで間違いないのだろうが、しかし、それなのに意味がわからないのは「誰にとっての天国なのか」ということが明らかにされないからだ。

川島伸夫が死んだ場所で撮影したかった。島根県出雲市。
ここを天国に設定したら、俺の周りで死んだやつらがわらわら出てきた。
林由美香、上野俊哉、伊藤猛、江利川深夜、鴨田好史。彼らに出会う旅

公式サイトより

いまおか監督のコメントにおいて、『彼らに出会う』のは川島なのか、いまおか監督自身なのかーつまり「誰にとっての天国なのか」ーがぼかされている。
だから、『最初観たときは意味がわからな』い。
では、何度か観れば意味がわかるのかというとそうではなく、『あぁ、こんなことかな』と思うようになるのは、恐らく、本作においては「誰にとって」はどっちでもよく、というか”どっちでもある”ことに気づくからではないか。

本作を観て私(だけでなく恐らく多くの観客)は、「メメントモリ」という言葉を思い浮かべた。

自己は死んでも、互に愛によって結ばれた実存は、他において回施のためにはたらくそのはたらきにより、自己の生死を超ゆる実存協同において復活し、永遠に参ずることが、外ならぬその回施を受けた実存によって信証せられるのである。死復活というのは死者その人に直接起る客観的事件ではなく、愛に依って結ばれその死者によってはたらかれることを、自己において信証するところの生者に対して、間接的に自覚せられる交互媒介事態たるのである。(中略)個々の実存は死にながら復活して、永遠の絶対無即愛に摂取せられると同時に、その媒介となって自らそれに参加協同する。

田辺はじめ「メメント モリ」

『日本の思想をよむ』(角川ソフィア文庫、2020年)に田辺の言葉を引用した後、著者の末木文美士氏はこう記す。

死者と何らかの関係を持たない人はいない。死者はある時には生者を責め、ある時には励ます。そうすれば、自分が死んだらどうなるか、という以前に、死者とどのように関わるか、ということが問題になる。
(略)
自己は死んでも、愛によって結ばれた死者は生者の中に復活して、生者を導く。そこに「実存協同」が生まれる。このことは、禅の修行者に限らず、同じような経験をした人は多いであろう。それは抽象論ではなく、僕たちの日常でごく自然に起こることだ。

田辺の云うところの「実存協同」を基に本作を考えれば、「誰にとっての天国」かは『どっちでもいい、というか"どっちでもある"』ということになるのではないか。

本作における「天国」は、「無宗教と言い張る日本人」の「宗教観」を見事に表現しているともいえる。

劇中の川島は、上述したように缶チューハイを飲みながら登場し、その後、日本酒(一升瓶に大きく「死神」とだけ書かれていて架空の銘柄にも見えるが、実際に撮影地である島根県にある加茂福酒造の市販酒である)、ビール、ウィスキーなどを"はしご"していく。
途中でケーキを拾い、タバコも吸う。
他の宗教は知らないが、仏壇やお墓に、死者が生前好きだったもの(酒・タバコ・ケーキ……)をお供えするのは、日本では当たり前の習慣である。
お供えしながら生者は、「あの世」にいる死者がそれを嬉しそうに(美味そうに)食べたり飲んだり吸ったりする姿を思い浮かべる。そうやって死者を思い出す。

私が本作を観たのは2023年の8月末。お盆は過ぎてしまったが、私は亡くなってしまった親族や友人、会社の先輩などを思い出していた(ついでに、「お墓の水・花が枯れると、おばあちゃんが枕元に立つ」とよく言っていた母の姿も思い出した)。

「あの世」に行って、姿・記憶そのままで戻ってきた人はいない。だから生者は、仏壇やお墓の前、或いはそうじゃない日常のちょっとした刹那に死者を思い出して、「もう酒もタバコも太るのも気にしなくていいから、好きなものを好きなだけやっててくれればいいなぁ」と想像する。
それを映像化してくれた「イメージビデオ」、これが私の感想である。

……と書いていて思い出した。
天国からそのままの姿・記憶で帰ってきた、唯一の男。
彼は陽気に歌った。
『天国よいとこ/一度はおいで/酒はうまいし/ねえちゃんはきれいだ』(「帰ってきたヨッパライ」(ザ・フォーク・クルセダーズ、1967年。フォーク・パロディ・ギャング(松山猛・北山修)作詞))
本作の主人公・川島もアル中で、由美香という「きれいなねえちゃん」にキスもされている。
これを川島氏に対するいまおか監督の「願望」だというのは、単なるこじつけだろうか?

メモ

映画『天国か、ここ?』
2023年8月29日。@K's cinema(アフタートークあり)

本文で『「無宗教と言い張る日本人」の「宗教観」』と書いた。
それは、いまおか監督の2020年公開の映画『れいこいるか』における「キリスト教」(まぁ『アーメン ソーメン ひやソーメン』ではあるが)と対比できる(本作は『れいこいるか』の流れを汲む作品である)。

観る前にいまおか監督のコメントは読んでいた。
だから「将棋クラブのチラシを配る女」が誰なのかも知っていた。
なのに、『私、由美香。林由美香』と彼女が名乗った瞬間、何だか泣きそうになった。

私にとって彼女は「お世話になったAV女優の一人」でしかなかった。
だから、彼女が私と同じ1970年生まれで、2005年に亡くなったことも知らなかった。
それを知ったのは、映画『監督失格』(平野勝之監督、2011年。ちなみにプロデューサーは庵野秀明氏)で、この映画は本当に衝撃的だった。

死から20年が経とうとしている今でも、彼女はいまおか監督を始め、多くの人の記憶に残り、『監督失格』や本作の中で生き続けている。

彼女はまさに、『自己は死んでも、愛によって結ばれた死者は生者の中に復活して、生者を導く』存在なのである。


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