変わりたいから、関わる~映画『あの娘は知らない』~

映画『あの娘は知らない』(井樫彩監督、2022年。以下、本作)の70分ちょっとの本編のほとんど、男女2人しか出てこない。しかも、言葉は少ない。
とても静かな映画だが、エンドロールが流れ始めた瞬間、何かが決壊してしまったかのように心が乱れ無性に泣きなくなった。
心も頭も整理がつかないまま劇場を出て、電車の中でパンフレットを読んでいたら、オピニオンコメント欄の吉本実優さんのコメントが私の気持ちを的確に表していた。

奈々と俊太郎さんに迫りくる「何か」の感情。その「何か」をとてつもなく知りたいのに、手を伸ばしきれない自分もいた。観終った後は燃ゆる感情を抑えながら帰るのに必死だった。これは私だけではないというのを、席から離れる人々の顔を見て思った。

早くに両親と祖母を亡くした中島奈々(福地桃子)は、若くして海辺の町にある旅館・中島荘をひとりで営んでいる。中島荘が休業中の9月、ひとりの青年・藤井俊太郎(岡山天音)が「どうしても泊めてほしい」と訪ねてくる。一年前に亡くなった恋人が、その直前に中島荘に宿泊していたことを知って訪れた彼は、「何故彼女は死んだのか」を知りたがっていた。
奈々は俊太郎を旅館に泊め、この土地の案内役を買って出る。

とてもシンプルなストーリーは、彼女の死の謎を巡る物語ではない。
早くにひとりきりになってしまった奈々と、突然恋人に死なれて(直接語られることはないが、自殺とほのめかされる)しまった俊太郎の、孤独と喪失感を巡る物語だ。
といっても、(恋愛や刹那的な肉体関係によって)互いの孤独や喪失感を埋めるような安易なストーリーではないし、簡単に孤独や喪失感が癒されるわけでもない。そもそも、それらが言葉やわかり易い態度で説明されることすらない。
まさに、先の吉本さんのコメントにあるように、『「何か」をとてつもなく知りたいのに、手を伸ばしきれない』のだが、しかし、2人が「知られる」ことを拒絶しているのではない。2人にとって「何か」がとても大切なものだと、言葉や態度ではなく雰囲気で感じられるからこそ、観客は安易に手を伸ばすことを躊躇する。手を伸ばしたら「逃げていく」のではなく「壊してしまう」、そんな感じ。

それは本作と観客の関係だけでなく、奈々と俊太郎もそうだ。
だから、2人は互いに歩み寄ったり共感を求めたりしないし、共感したつもりにも理解したつもりにもならない。

それは劇中の奈々の言葉が表している。
『どんなにわかりあえたつもりでいても、わかりあえない"絶対の孤独"がある』

自身の中にも"絶対の孤独"の存在を認めるからこそ、観客は『手を伸ばしきれない』。

それでは人生は孤独でしかなく、寂しく悲しすぎるではないか、そう悲観したくもなる。
しかし、本作は絶望ではなく「希望」の物語だ。

人は"絶対の孤独"に向けて、手を「伸ばさない」のではなく「伸ばしきれない」。
わかりあえないと知りつつ、それでも手を伸ばそうと試みる。
それは、互いに関係を持ちたいからだ。
関係を持ちたいから、手を伸ばそうと試みる。
関係を持ちたいから、その伸ばされた手に自分から少し近づいてみる。
何のために?
その理由は、俊太郎の言葉が教えてくれる。

『変わりたいから、関わったんじゃないの?』

「変わりたい」と思うだけでは変われない、誰かや何かに「関わる」からこそ「変われる」。
奈々と俊太郎は観客が期待するようなわかり易い「関係」に陥らないし、明らかな「変化」も描写されない。
しかし、あの9月の短い期間に2人が関わったことは絶対的な「希望」である。

それは本作を観ることによって関わった、我々観客も同様である。
私がエンドロールで無性に泣きたくなったのは、悲しかったからではない。
感情の乱れはきっと、「変化の胎動」だったのだ。

メモ

映画『あの娘は知らない』
2022年10月1日。@新宿武蔵野館

まさに「変わりたいから、映画を観る」のである。

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