映画『愛について語るときに イケダの語ること』

女性に告白された男性が、暫しの逡巡の後、「本当はすぐにYesと言いたいけど…No」と口にした瞬間、私は凄いものを見てしまったと思った。それは、「虚」が「実」を生み出してしまった瞬間だった。

映画『愛について語るときに イケダの語ること』(企画・監督・撮影・出演 池田英彦、2021年。以下、本作)は、とても楽しいと同時に、58分という短い時間に反して様々な事を考えさせてもくれる濃密な映画だった。


いつ頃からか日本映画にて、余命わずかと宣告された登場人物が残された時間を懸命に生きるフォーマットの映画が、「感動」「泣ける」定番パッケージとして量産されるようになった。
本作も、そのフォーマットに則っている。

『誕生日直前にスキルス性胃ガンステージ4と診断され、(何もしなければ)余命2ヶ月と宣告された主人公が「今までやれなかったことをやり」、それをカメラに収めた。主人公は辛い治療に耐え2年生き、死去後、主人公の友人たちが奔走し、遺言どおり彼の撮った映像を映画化し上映にこぎつける』

これを読んだだけで、色々想像してウルッとしてしまうかもしれない。
しないまでも、ほとんどの場合「泣ける感動映画」を想像することだろう。
だが、詳細を説明すると、ほとんどの人は戸惑うのではないか。

本作の主人公・池田英彦氏は生来の障がい(軟骨四肢無形成症・通称コビト症)を持つ、身長112センチの男性。40歳の誕生日直前に胃ガンと診断された。
彼が「今までやれなかったこと」としてカメラに収めた映像は、(ほとんどが風俗関係の)女性とのセックス。

「バカッター」的悪ノリではない。いたって大真面目だ。
「死後、映画を公開してほしい」という遺言を承諾し、生前の彼を撮影(セックスシーン以外)し、上映のために奔走したのは人気テレビドラマシリーズ『相棒』も手掛ける脚本家・真野勝成氏(本作プロデューサー)。
2020年12月、アップリンク渋谷にて行われた上映会が評判となり2021年6月劇場公開され、同年12月である現在、アップリンク吉祥寺でアンコール上映されている(現在は終了)。
私が観たのは12月5日日曜日だったが、定員98人の劇場は満席だった。
上記のとおり、池田氏のセックスシーン(と一般的な放送に不適切な卑猥な発言)もあるため、「R18+」指定の本作だが、女性客も多く見られた。


お定まりの「余命系泣ける感動映画」でないことは事前に知っていたのだが、とは言え「ドキュメンタリー映画」とも「劇映画」とも言い切れない、境界線のはっきりしない本作を観て戸惑った。

戸惑いが大きかったのは、「身体障がい者」などに理解ある「真っ当な人間」と思い込んでいた私の中にある無意識の偏見を、これでもかと言うくらいにえぐり出され、「ちっとも真っ当じゃない」ことを認めざるを得なくなったことである。

まず、俳優の滝藤賢一氏似(抗がん剤治療前)のイケメン顔(しかもオシャレ)の中年男性が、通称コビト症といわれる障がいで身長が112センチだという極端なアンバランスさに戸惑った。
その「障がい者」が、私と同じ性欲を持ち、同じような妄想で興奮し、同じようなセックスをする。
考えてみれば(人間として)当たり前の行為なのだが、当たり前であるが故、それに戸惑う私は、普段いかに偏見を持って生きているのか直視せざるを得なくなった。

そして、もう一つ直視せざるを得なかったのが「リアルなガン進行」、つまり、その先に確実に訪れる「現実の死」そのものである。
本作の主眼は「ガンと闘う」ことになく、病状が逐一説明されない。
だが、そのことにより、彼の陽気な行為に反して刻々衰弱していく生々しさが際立ち、それが却って、誰にとっても「現実の死」が避けて通れないものだという普遍性を強く訴えてくるのである。
本作を観ながら、私は今は健在の両親やきょうだい・縁者だけでなく、自分自身の「現実の死」がリアルに感じられ、戸惑ってしまった。


だが、そういった「身近なリアル」以上に戸惑ったのは、「ドキュメンタリーという実を装った虚」から「実」を生み出してしまったという「作品のリアル」の出現だった。
それは、映画監督・佐々木誠氏による編集(共同プロデューサー・構成でもある)によるところも大きいと思う。佐々木氏は自らの過去作と通底するテーマである「虚実皮膜」を本作でも採用し、フィクションでもドキュメンタリーでもない映画を作り上げている。

冒頭に書いた、女性が男性(池田氏)に告白するシーンは「フィクション」である(ここにおいて本作は「実を装った虚」となる)。

池田氏の『今までやれなかったことをやりたい』。
その一つが、『理想のデート』である。
「セックスはお金を出せば出来る」が、『理想のデート』はそうじゃない。
そこで、真野氏は(「AV」ではない)女優の毛利悟巳(さとみ)さんをキャスティングし、彼女に対しある程度のシナリオを提示したうえ、『理想のデート』というフィクションを撮影する。
公園で待ち合わせし、2人でブランコに乗る(このシチュエーションと彼女のセリフが「フィクション」であることを明示している)。スーパーで仲良く食材を調達し、池田氏が実際に暮している部屋で彼女が作った鍋料理を食べ、並んで映画のDVDを観る。
そして、彼女はシナリオどおり「付き合って欲しい」と告白する
『理想のデート』というフィクションにおいて『イケダ』は彼女の告白を受け入れる、いや池田氏はシナリオ上において受け入れなければならない。
だが、彼は暫し逡巡し、「本当はすぐにYesと言いたいけど…No」と口にした。

彼はこの『理想のデート』が、他でもない自分自身の希望によるフィクションであり、彼女が女優であり、その彼女が方向性を持ったシナリオに沿って行動していることも承知している。そして何より、二人の前にいるカメラを構えた真野氏の存在が否応にも明確にフィクションであることを意識させる。
「それなのに」いや「それだから」、彼は「実を装った虚」から「本当の実」を生み出してしまった
だから彼は、「素に戻った」わけではない。

彼はフィクションを壊してしまった事ではなく、また、断る言い訳でもなく、ただただ目の前にいる彼女を傷つけてしまったことを、言葉を選びながら、また、「Yesと言いたいけど」という言葉を繰り返しながら、誠心誠意詫びているように私には見えた。

それまでの池田氏は、自分のセックスを撮影したり、日常でも努めて「明るいエロ話」を口にすることにより、自身の障がいや「現実的な死」を希薄化しようとしているように見えた。
その軽さはある程度演技だろうが、池田氏自身『愛について』、その時点ではカメラに収められた以上のものを内面の言葉として持っていなかっただろうと思う。
理想の実現を前に『イケダ』が語ったことは、彼女に誠実であろうとした池田氏が内面を見つめたことによってえぐり出された『愛について』であり、だからそれは「虚」を経験しないと生まれ得なかった「実」なのである。

だから、私は「イケダの口を借りて池田氏自身から愛についての言葉が生まれる」瞬間を目の当たりにし、凄いものを観てしまったと震え、その結末である二人のハグに崇高さを感じたのである。


21世紀の現在、人々はSNSなどで様々な言葉を世界に発信している。
「バズると人生が変わる」とも言われているらしい。
しかし、本来「人生が変わる」のは言葉を発した側ではなく、言葉を受け取った側ではないのだろうか?
それは池田氏が死去した後も、彼が語った言葉を受け取った我々が各々変わっていることからも明白だ。
だからこそ本作は評判になり、彼が語った「愛」を受け取るため、連日、誰かが映画館を訪れているのである。


ちなみに、誰かを変える言葉なんて、特別な言葉じゃなくったって構わない。そのことも本作が教えてくれた。

本作の『イケダ』は終始(「感動ポルノ」を押し付けがちな我々一般人の意図に反して)「陽気なエロオヤジ(しかも滝藤賢一似)」であるが、彼がそうなったのは、他人から掛けてもらった、たった一言だった。

自分のセックスを撮り続けた彼の初体験は、名古屋の風俗店だったという。大学生の頃、「近所だと誰かに見つかるかも」と『エロ本を買うのと同じ気持ち』で、神奈川からわざわざ名古屋まで出かけた(東京でないところがナイス)という池田氏。
初体験という以上に、自分の障がいを気にしていた彼は、相手をしてくれる女性に事前に確認したのだという。彼女は一言。

同じ人間だから

池田氏を普通に受け入れてくれた彼女の、とてもありふれていて、とてもシンプルな言葉が、彼の気持ちを軽くした。そして彼の人生を変えた。
言葉には人を変えるだけの力がある。


メモ

映画「愛について語るときに イケダの語ること」
2021年12月5日。@アップリンク吉祥寺。アフタートークあり

それにしても、「劇映画の演出されたベッドシーン」ではなく、「市井の男女の私的セックス映像」を100人近くの見ず知らずの他人と観るというのは、不思議な体験である。
以前、TAMA映画祭で「テレクラキャノンボール」をやっぱり100人ぐらいの人たちと一緒に観たとき以来の体験だった(「本来は独りで見るはずのAV」を100人近くの他人とゲラゲラ笑いながら観るといった衝撃的な体験だった)。

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