舞台『新ハムレット~太宰治、シェイクスピアを乗っとる!?~』

悩む……
私は本家本元のシェイクスピア劇『ハムレット』を観たことがないし、太宰治の『新ハムレット』を読んだことがない。
そんな私が、東京渋谷のPARCO劇場で、舞台『新ハムレット~太宰治、シェイクスピアを乗っとる!?~』(作・太宰治、上演台本・演出・五戸真理枝。以下、本作)を観てしまったのだ。
そんな私に感想を書く資格があるだろうか?
「書くべきか、書かざるべきか?」
別に誰かに頼まれた訳でも、お金が入ってくる訳でも、それ以前に誰が読む訳でもないのだから、書かなくったって誰も困らない。私も困らない。
困らないけど悩む。周りから見ればそんなことで悩んでいるのは滑稽に映るだろう。それは本作のハムレット(木村達成)だって同じだ。
何故そんなに悩む? と彼(と私)は、悩んでいる。それを何周か繰り返した後、彼(と私)は突然叫ぶのだ。
『「怒涛に飛び込む思い」で愛の言葉を叫べ』

叫んではみたものの、あまりに唐突で大仰過ぎる……
やっぱりシェイクスピアも太宰も知らぬ私には、息子のレヤチーズ(駒井健介)を送り出す父のポローニヤス(池田成志)の、みみっちくてセコイ言葉の方が、身の丈に合っている。
ポローニヤス曰く……
『(飲み会劇場では)末席に座り、周囲の議論芝居を拝聴していちいち深くうなずく』
浮世の人は1両(のチケット)を10両(の感動/満足)にして返されても、貸した払った1両は忘れない』

私は何を書いているのだろう?
そうそう。問題は、「世にある、世にあらぬ、それが疑問じゃ」(坪内逍遥訳。ちなみに本作冒頭で、坪内の訳に異を唱える太宰の前口上が朗読されるが、該当部のセリフは何のことはない「To be or not to be」というシェイクスピアの原文のままだったのだが、これは原作どおりなのか?)……ではなく、「感想を書くべきか、書かざるべきか」であった。

ちなみに、先に本作冒頭について書いたので、参考までにパンフレットに掲載された安藤宏氏による「特別寄稿」から原作についておさらいしておく。

『新ハムレット』は、1941年に文藝春秋社から刊行された、太宰文学の中期、つまりデカダンスから健康で明るい作風に転換した時期の作品である。
『ハムレット』のパロディを試みるにあたって、太宰は坪内逍遥の訳と、浦口文夫『新評註ハムレット』(1932年)を参照した、とみずからことわっている。浦口の著書は原文も併載されており、執筆にあたって辞書も引きながら検討していたようだ。まだ一部の文学好きの間でしか太宰の名が知られていなかった時期でもあり、かなりの意気込みで、自身にとって初めての書き下ろし長編小説にチャレンジしたわけである。

その『健康で明るい作風』のひとつが、ポローニヤスの教えに繋がるのだろう。

ところで、何度も言うように、私はシェイクスピア劇を観たこともないし、太宰の原作も読んでいない。
恥の多い生涯を送ってきた私にとって、それくらいのことは、もう恥でも何でもない。
だから、本作がどこまで原作に沿っているのかは知らないと踏ん反り返って適当なことを言うが、太宰が女性と入水じゅすい心中した事実が強く意識されているに違いない。

とにかくグチグチ・クヨクヨ・ヘナヘナと悩み続けるハムレットに観客は太宰その人を見る。なにせ、悩んだ挙句にオフヰリア(島崎遥香)に入水心中を持ち掛けてしまうのだ(これに「塩対応」で応えるオフヰリアは「さすが!」の一言)。
2.5次元出身のイケメン・木村が悩み続ける姿は露悪的なナルシスト感満載で、その面倒くささが太宰のイメージに重なる。
彼は、朝日新聞の本作インタビュー記事でこうコメントしている。

元々2.5次元の舞台にいました。キャラになるため役を着る。ぶかぶかじゃなく、皮膚のように薄く。
主演は居心地がいい。2番手だと誰も取り巻いてくれなかった。今やっと僕のために皆がいてくれる。
僕はいつも求めてしまう。こんなに愛してるのだからと、それ以上の物を欲してしまう。友達に贈り物をする時さえイライラする人間です。なんで俺だけ一方的に好きなんだって。
ああ、どうしてもかっこいいことが言えない。すっごく浅はかだな。恥ずかしいなあ。でも、それが真実です。人間だから、僕。

朝日新聞2023年5月25日付夕刊
『太宰だけど笑える「新ハムレット」』

……やっぱり、何だか太宰っぽい。

そんな本作のハムレットは、父の死に叔父のクローヂヤス(平田満)の計略が関係していることを知り(元々が『ハムレット』なのだから、こんな遠回しに書くこともないのかもしれないが、まぁ一応の予防線ということで)、『怒涛に飛び込む思い』を奮い立たせる。
彼が国の運命を変えるかもしれない期待、それを音楽が盛り上げる……のだが、それが途中で唐突に途切れ、終幕となる。
これが何を意味するのか?

もしかしたら、ラストシーンのハムレットは太宰そのものだったのかもしれない。
作品が評判になり、太宰が日本文学を変えるかもしれない期待を、彼自らがった。唐突に。

いや、実は唐突ではなかった。
太宰が死ぬかもしれないと悟った一人が、筑摩書房の創始者・古田あきら氏である。

太宰治の死をなんとかして食い止めようと奔走したのも古田さんだった。太宰が玉川上水で心中したのは1948年6月30日。最後の長編となった『人間失格』は、筑摩書房の月刊誌「展望」に連載するため、その年の3月8日から5月12日にかけて執筆された。その間、古田さんは太宰を熱海の旅館に泊まらせたり、当時自分が住んでいた大宮で生活させたり、とにかく東京から遠ざけようと心を砕いた。太宰が弱っていること、死を決意していることを古田さんは察していたらしいのだ。
いよいよ切羽詰まっていく太宰を目の当たりにした古田さんは、太宰の師である井伏鱒二のところへ行って「このままだと太宰はダメになってしまう。いまが瀬戸際だと思う。自分が郷里で食糧を調達するから、準備が整ったら御坂峠の茶屋で太宰といっしょに一か月くらい暮らしてくれないか」と嘆願した。そして食糧の調達のために信州へ向かったのだが、すんでのところで間に合わなかった。古田さんが東京に戻ってくる前日に太宰は命を絶ったのである。
しかも死の前日、太宰は自宅のある三鷹からはるばる大宮へ、古田さんを訪ねていた。もちろん、信州に出かけていて留守だった古田さんとは会えずじまい。あとからそのはなしを聞いた古田さんは
「会えていたら太宰さんは、死なんかったかもしれん」
と言ったという。これ以上の痛恨事はなかっただろう。

金井真紀著『酒場學校の日々 フムフム・グビグビ・たまに文學
(ちくま文庫、2023年)

さて、暗転で終幕した舞台上のハムレットである。
彼はこの後、クローヂヤスとどう対峙したであろうか?
「世にある、世にあらぬ、それが疑問じゃ」
……なんてね

メモ

舞台『新ハムレット~太宰治、シェイクスピアを乗っとる!?~』
2023年6月10日 ソワレ。@PARCO劇場

それにしても、巧みな俳優たちの演技合戦を観ているだけで、シェイクスピアも太宰も何も知らなくても、本作を十分に堪能できる。

特に、終盤、クローヂヤスを追い詰めながらも小人物ぶりが隠しきれないポローニヤスを演じた池田成志氏の演技には、かなりゾクゾクした。
また、ホレーショーを演じた加藤諒氏は、観客の印象に深く残ったのではないか。私は、王妃ガーツルードの言葉にいちいち反応する「顔芸」に感動(?)した。
そのガーツルードを演じた松下由樹さんは昔から好きな俳優さんで、相変わらずの凛々しい存在感にウットリした。
駒井健介、平田満両氏を加え、本当に贅沢な座組だが、その中にあって、意外と言ったら失礼かもしれないが、キュートな中に確かな芯があるオフヰリアを見事に造型した舞台経験の少ない島崎遥香さんが印象的だった。


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