映画『一月の声に歓びを刻め』

『三島有紀子という映画作家は捉えどころがない』
北村匡平・児玉美月著『彼女たちのまなざし 日本映画の女性作家』(フィルムアート社、2023年)の中で、北村はこう評している(彼はパンフレットにも寄稿している)。

フィルモグラフィのほとんどを小説や漫画を原作とするアダプテーション作品が占める。したがってテーマやジャンルによる一貫した作家性が見出せない。(略)
短篇を除けば他者がシナリオを書いているか、三島有紀子と競作で脚本を担当している。

『一貫した作家性が見出せない』ということであるが確かにそのとおりで、しかし、2020年代に入り、少しずつ様相が変わってきたと感じ、そして2024年、いきなり『一月の声に歓びを刻め』(以下、本作)が発表された。
様相が変わってきたというのは、「作家性が出てきた」ということではなく「作家性を商業映画に持ってこようという意識が生まれた」ということではないか、と個人的に感じる。
しかし、(助走がない中で)そのように意識を変化させるにあたっては、彼女の中でリミッターを振り切るほどの瞬発力が必要だったのではないか。
そう感じさせるのは、公開前から明かされているように、本作が三島監督の「幼い頃の実体験-しかも、性暴力ー」をモチーフにしているからである。

「自身が不可抗力により"普通じゃない"状況に陥れられた」ことを出発点に「では"普通"とは」を執拗に問う女性映像作家には、たとえば河瀨直美がいる。彼女はその問いを自分の内面や身体をとおして、或いは他者であっても近親者というごく近しい者を通して描き続ける。
対して三島監督は、恐らく「世界中には同じような境遇で"普通じゃない"と思っている人たちがいる」ということを問いの出発点にしているのではないか。
だから、自身や近親者を撮る(しかもかなりの至近距離で)のを厭わないどころか積極的に行ってきた河瀬監督に対し、三島監督はそれを他者を通じてフィクションとして表現する。
たとえば、2023年に公開された『東京組曲 2020』は、三島監督自身が誕生日である2020年4月22日の夜中に聞いた女性の泣き声を発端に、20人の俳優がそれぞれの2020年4月22日前後に何をしていたか再現し自身で撮影も行わせた映像から構成したオムニバス映画だった。

本作は三島監督自身が脚本・監督(及び共同プロデュース)を手がけたオムニバス映画で、3篇の物語の登場人物たちが互いに関係性を持つことはない。
共通しているのは3篇とも「島」(北海道・洞爺湖、東京都・八丈島、大阪・堂島)で、各短篇は水面の映像とフェリーの霧笛でシームレスにつながっている。

まったくつながりのない「島(=物語)」は、2話目の主人公・誠(哀川翔)の娘・海(松本妃代)の『人間なんてみんな罪人だ』という叫びで架橋される。

海の叫びはある種の(宗教的)正論ではあるが、それが架橋する1話目のマキ(カルーセル麻紀)と3話目のれいこ(前田敦子)は、いみじくもれいこが叫ぶように「何で被害者の私が罪を背負わなければならないのよ」といった「罪人」なのである(ちなみに誠は、交通事故に遭った妻の延命治療を断ったことで、罪を背負っていると感じているが、それとは別に、海自身は好きな男の子どもを宿したことを、古い価値観と家父長意識を(未だに)持っている父親(=「男」)によって罪に仕立て上げられたことに抗議している。「女の」を罪として仕立て上げるのは、いつだって「(自身の性を当たり前に受け入れている無自覚で無知で無神経な)男」だ。だからこそマキという「男」は、「(当たり前に受け入れている)男」が無自覚ゆえに犯し続ける罪を自ら激しく断罪したのである。その意味において、前後の物語を架橋する2話目は、本作にとって重要な物語として機能している)。

先述した「世界中には同じような境遇で"普通じゃない"と思っている人たちがいる」という三島監督の想いは、1話目で性暴力に遭ったことを悲観して自死した娘と、3話目で性被害に遭って好きな人とセックスができなくなった主人公の名前が、共に「れいこ」であるーつまり、「れいこ(ひらがな表記)」に統一することによって「いつの時代・場所にも"れいこ"がいる」ーことで表している(さらに言えば、マキのもう一人の娘・美砂子を片岡礼子が演じているのも注目すべき点)。

「作家性」ということで云えば、子どもにとって父親が絶対的な庇護者であることも挙げられるのではないか(対して母親は、不在か子どもよりも自分が大事な存在として描かれている。故に、1話目の「母親」であるマキも同じ存在として、娘である美砂子から「(庇護者としての)父親」の役割を降りてしまった(と彼女は感じている)ことに対して「自分勝手だ」と非難・拒絶される立場となっている)。
それが「男性だから」といった安易なジェンダー観や家父長制観ではないのは、(「女」である美砂子とは対比される形で)マキが証明している(それは、前述の北村による「商業映画における三島作品の女性主人公たちは、強く惹かれる男性が現れても、決して恋愛に向かわない」という指摘にも表れている)。

しかし、「父親」という存在を希求しながらも、それが男性を指さないという、ある種の矛盾・倒錯を抱えた三島監督の「男性観」は3話目に見てとれる。
3話目はまさに三島監督自身を仮託された前田敦子が鬼気迫るほど凄まじい演技をみせているが(あの慟哭は嗚咽するのも忘れるくらい激しいショックを受けると共に何故か激しい自責にとらわれる。それは私が「男」だからだ)、その一部始終を見届け(させられ)るのは、「トト」という仮名を名乗る「男」である。
彼が仮名なのは「れいこ」と対照的に、匿名性を高めることで、"全ての「男」"を指していることを端的に示すためである。だから彼(=全ての「男」)は、れいこの後を追わなければならないし、彼女の慟哭を見届けなければならないのである。

さらに、ここで人間の複雑性或いは倒錯が現れていると思われるのが、矛盾するようだが3話目は「男」によってれいこの罪が赦されることである。
れいこが喪服を着ているのはつまり、「罪を背負った(全ての)れいこ」を(マキとともに)葬送するためである。
だから前田敦子による呟きのようなアカペラの歌は、葬送曲でもあるとともに、祝福の歌でもあるのではないか。

と、気持ちが乗って、指が勝手にそうタイプしたのだけれど、私の感想はそうではない。

何かを食べながら独り街を歩くれいこの中の罪(の意識)は、そんな簡単に消えたりしないのではないか。
普段の街中で、特段の苦悩を抱えず淡々と(或いは幸せそうに)街を歩いている(ように見える)女性の中には、「被害者なのに背負わされてしまった罪を抱え、"自分は普通じゃない"」という思いを抱いている人たちがきっといる。
パンフレット片手に京都の映画館を出た私が、東京から来た「他所者」だと誰も気づかないように、それとは気づかれないような女性たちが、世界中にきっと……

メモ

映画『一月の声に歓びを刻め』
2024年2月10日。@UPLINK京都

ラストに映ったタイトルに強い衝撃を受けた。
この衝撃は『そこのみにて光輝く』(呉美保オミポ監督、2014年)以来だ。
こうした演出は他の作品にもみられるが、両作は、そのタイトルに反してやるせない憤りを感じさせる余韻が、とても似ていると思った。
どうでもいいことだが、逆にその効果が物語の内容を倍増させ、爆笑させたのが『もっと超越した所へ。』(山岸聖太監督、2022年)である。


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