映画『彼方のうた』を観て思った取り留めもないこと…(感想に非ず)

2023年の東京国際映画祭で観たとき、事あるごとに『私の頭の中で、薄くふんわり("ぼんやり"ではない)とした明かりのようなものが点灯』したのだが、本公開後に映画『彼方のうた』(杉田協士監督、2024年。以下、本作)を観たら、同じようにはならず、何故か終始ドキドキしていた。

それはラストシーンを知っているからだとも思ったのだが、どうもそれだけではないということに気づいたのは、上田で雪子ひとりがカフェにいるシーンを観たときだ。
つまり、ラストシーンの春が示すものは、過去に雪子や剛が持っていたもので、だから二人を観ながらドキドキしていたのだ。
観終わった後にパンフレットのあらすじを読んで、それがあながち間違いでなかったと思った。

書店員の春(小川あん)は駅前のベンチに座っていた雪子(中村優子)に道を尋ねるふりをして声をかける。春は雪子の顔に見える悲しみを見過ごせずにいた。一方で春はつよし(眞島秀和)の後をつけながら、その様子を確かめる日々を過ごしていた。春にはかつてこどもだった頃、街中で見かけた雪子や剛に声をかけた過去があった。春の行動に気づいていた剛が春の職場に現れることで、また、春自身がふたたび雪子に声をかけたことで、それぞれの関係が動き出す。春は二人と過ごす中で、自分自身が抱えている母親への思い、悲しみの気持ちと向き合っていく。

本作パンフレット「ストーリー」

恐るべきことに、この「ストーリー」の大部分は本編で描かれていない。なのに、本作はそれがちゃんと描かれている

本作の感想は以前の拙稿(以下、前稿)に書いていて、読み返して思い違いしていた箇所とか修正しようかとも考えたが、それは初見の感想ということでそのままで良いと思い直し、上映後に杉田監督と映画監督・森井勇佑氏(『こちらあみ子』)のトークショーも行われたので、稿を改め、それを含め本作を観て思った取り留めもないことをツラツラと書くことにした。

森井監督が指摘したとおり、本作は『見る/見られる』関係性を描いている。
基本的には、春が他の人を「見る」という構造になっている(その象徴として森井監督が挙げたのが、デッサンの場面でまりこさんが「春にチラチラ見られている」と声を荒げるシーンだ)。
しかし、現実の人間は「見る」だけの存在にはなり得ず、だから、春も誰かに見られている(ということが本作の結末となっている)。

私は前稿で、本作に出てくるカフェ「キノコヤ」は杉田監督の前作『春原さんのうた』(2022年)の舞台であり、そこが登場する理由として杉田監督が『登場人物が"その物語の中だけ"で生きているのではなく、その前も生きていたし、物語が終わった後も生き続けていると考えて作品を作っている』『だから、前作の登場人物たちだって、どこかで生きていることは私の中では当たり前のことで、その人たちが今回たまたま本作の登場人物の生きているところにいた』と語ったと書いた。

前稿には、私が本作ラスト近くの『紙袋を下げた春が歩道で佇む(ではなく"立ち尽くす"といった方が適切かも)シーン』を前のめりで観そうになったとも書いた。
その時思ったことは前稿のとおりだが、そのシーンが強烈な印象を残すのは、初見では気づかなかったのだが、その春をじっと「見ている」女性が一瞬映ったからだった(つまり、この時点で春は「見る」存在から「見られる」存在に転化している)。
その女性は、前作から杉田作品を観始めた私は知らなかったが、杉田監督の2作目『ひかりの歌』の登場人物である今日子(伊東茄那かな)だったのだ。
もちろん春は今日子のことは知らない(はず)。

驚くのは、「見る/見られる」関係が登場人物や物語に留まらないことだ。
上田の映画館で春と雪子は『偶然と想像』(濱口竜介監督、2020年)の「第三話 もう一度」を観ている。
実はこのシーンに携わった撮影の飯岡幸子氏と録音のこう永昌よんちゃん氏は、「第三話 もう一度」でも撮影/録音を手掛けている。
つまりここでは、『自分が撮った(=見た)ものを誰かが見ている(=見られている)場面を撮っている(=見ている)』構造が生まれている。

それにしても前作から通して食事シーンが多い。登場人物たちの関係は食事から始まっていると言っても過言ではないほどだ。
恐らく監督にとって「食べること」は「生きること」に直結しているのだろう。
最終盤、「キノコヤ」で春を含めた仲間たちが、生まれた子どもの「お食い初め」に立ち会う。その後、上述の今日子に見られるシーンを経て、春が雪子にオムレツを作ってもらうようにお願いする(本当は春が作る番だった)。
そのオムレツを食べた後、唐突にラストシーンが来るのだが、このラストに大きく感情が動かされるのはつまり、それが「お食い初め」から始まっているからでもある。

この唐突なラストシーンについて杉田監督は、『シナリオをプロットなしに最初から書き始めて、普段なら書きながらシーンを思い浮かべることがないのに、雪子が春を抱きしめたシーンを書いたところで春の顔が頭に浮かんで、「ここで終わらなきゃ」と思って、実際にそこで書くのをやめた』と説明した。
人によっては、信じられない(というか、不誠実/不真面目にも取れる)だろうが、それは「物語=ストーリー(わかり易く云えば「起承転結」)」と思っているからだ(もっと言えば、ストーリーは「説明可能」とも思っている。だから上述の「ストーリー」を読んで、勝手に納得してしまった人も恐らくいるだろう)。

この話を聞いて思い出したのが保坂和志の小説観で、彼の『書きあぐねている人のための小説入門』(中公文庫、2008年)にはこう書かれている。

よく、私の小説には結末らしい結末、つまり、"オチ"がないといわれる。(略)
私の小説観というのは、とにかく途中でだらけてしまったら読者は先を読まない、というものだから、だらけさえしないで続いたのなら、どこに結末をもってきてもかまわない。最後の行まで読者が来たということがそれだけですごいことで、それが最後の行で次にもう行がないのだからそこが終わり、ということなのだ。

もちろんこれは保坂の小説観であり、杉田監督の物語観を代弁したものではないが、結局のところ、杉田監督の頭の中で物語が進んで行き、その「物語自体」が「ここで終わり」となった、ということは同じなのではないか。

メモ

映画『彼方のうた』
2024年1月24日。@シネクイント(アフタートークあり)

じゃぁ本作は勢いだけかというのも違って、『偶然と想像』のどのセリフの部分を使うかというのは、かなり試行錯誤を繰り返したそうだ。
正確な言葉は思い出せないが、杉田監督は『物語にハマリ過ぎないように気を遣った』といったことを語っていたように思う。
本作は全編通してコントロールされている。


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