映画『椿の庭』

若い頃は思い出す過去よりまだ見ぬ未来の方が長く感じられたし、死者は身近ではなく死そのものも「ただの概念」だと思っていた。

そんな私は、映画『椿の庭』(上田義彦監督、2021年。以下、本作)で抱いた自らの感情に驚いた。

夫を亡くした主人公・絹子(富司純子)の家に、夫との共通の友人・幸三(清水紘治)が訪ねてくる。
二人は、絹子の夫を交えた3人で行った、まだ開業したての後楽園遊園地での思い出を楽しそうに語る。

そして、絹子が亡き夫がそこにいるかのように語りかけるシーン。
絹子の次女・陶子がそこに居ない絹子に語りかけるシーン。

楽しかった過去を思い出し、死者の在りし日の姿を懐かしむ。
物語の一つのエピソードとしての短いシーンに、こんなにも胸を突かれる自分に驚いたのだ。

そうか、私も半世紀以上を生きてきたのか。
あらためて、そう実感した。


絹子は、相続税の捻出のため家を手放さなければならないのだが、それを認めたくない気持ちを「その場所に行くと色々な事を思い出す。その場所がなくなると思い出も消えてしまうのではないか」というような言葉で吐露する。

その場所に行く(或いは「いる」)ことによって人が思い出を甦らせるとすると、その思い出は、人ではなく「場所(土地や家)」が記憶しているのではないか?

保坂和志著『カンバセイション・ピース』(河出文庫)は「家にも記憶があるのではないか」というテーマで書かれた小説であるが、この「椿の庭」という本作は「土地=庭」の記憶が描かれているのではないか。


本作は、人を含め様々なモノが去ってゆく。
映画の冒頭、死んだ金魚が椿の花にくるまれて土に還される。
その日は、その家の主である絹子の夫の四十九日である。
その少し前には、駆け落ちして韓国で暮らしていた長女・葉子を事故で亡くしている。
次女の陶子(鈴木京香)は、結婚してこの家を離れている。
藤の蜜を吸っていた蜂は、この家の縁側で短い生を終える。
庭に植えられた木々から離れた落ち葉は、掃き集められ処分される。
家も処分され、その家と運命を共にすると決意した絹子もまた…


先述した『カンバセイション・ピース』では、「白血病のトカゲが草むらで『人知れず』死んでゆく」というエピソードに対し、主人公が「神がいた時代なら、たとえ人が見ていなくても神が見ている(と信じることができた)から『人知れず』ということはあり得なかっただろう」と考える。

現代ではもう神はいないのかもしれないが、神のかわりに土地が見て、記憶しているだろう。


本作は「庭から人などが去っていく物語」であるが、私は「椿の庭が、去って行ったモノたちを思い出している物語」を観ている気がしていた。

しかし、本作はただノスタルジックなだけの映画ではなかった。祖母である絹子が手放した家を離れ、独り暮らしを始めた渚(シム・ウンギョン)が、部屋に置いた金魚鉢に移し入れた2匹の金魚を、驚くほどの長回しで眺め続けるラストシーン。

私は、渚が住む部屋が「新しい記憶」を始める瞬間を目撃した。
同時に、元気に泳ぐ金魚が、かつての「椿の庭」を想起させ、私は二つの土地の記憶の媒介者となった。


2021年4月22日。
「翌日には東京で3度目の緊急事態宣言発令か?」との情報が飛び交っていた。
発令された場合、劇場も制限の対象になるとも言われており、それを見越した各映画館は23日以降の事前予約を中止し、上映スケジュールも公開せず、それは上映中止の可能性をも示唆していた。
そうなる前の駆け込みだったのか、シネスイッチ銀座には、それなりの観客が入っていた。
葉山でひっそり暮らす絹子と渚が、何となくコロナ禍の自粛生活と重なって見えた。

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