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映画の遊び心、笑うか怒るか困惑するか~映画『走れない人の走り方』~

映画の全てのシーンはストーリーに奉仕すべきだ。
そんな信念を持つ人は、怒り出すかもしれない。
ただ漫然と「映画ってそういうものだよね」と思っている人は「ワケがわからない……」と困惑するかもしれない。

私はというと、映画『走れない人の走り方』(蘇鈺淳スーユチュン監督、2024年公開。以下、本作)を観ながら、ずっとニヤニヤしていた(何せ、『日本の映画館は静か』なのだから)。
ドイツの映画祭で観た現地の人たちは爆笑したそうだ。
それは単純に「映画」というものに対する考え方の違いで、別に良し悪しではない。

本作、そもそもワケがわからないことだらけだ。
台湾出身の女性監督が、商業映画で主役を張るような俳優を使って撮った、東京藝術大学大学院映像研究家映画専攻の修了制作(卒業制作)映画が、ミニシアター系といえど商業映画として全国で上映され、おまけにドイツの映画祭にも出品されているのだ。
何だか頭の中に「?」がいっぱい広がってしまう。

ロードムービーを撮りたい映画監督の小島桐子(山本奈衣瑠)。だが、理想の映画づくりとは裏腹に、予算は限られ、キャスティングは難航するなど、問題は山積みだ。
ある日桐子は、プロデューサー(早織)に内緒でロケハンに向かうが、その途中で車が故障。さらにその夜に飼い猫が家から逃げ出した上、妊娠中の同居人(BEBE)が産気づく。様々なトラブルに見舞われ動揺した桐子は、翌朝の大切なメインキャストの打合せを反故にしてしまう。
キャストが決まらず車を直す金もない中で、撮影を実現させるための方法を模索する桐子は、あるアイデアを思いつく-。

本作パンフレット「STOPRY」
(俳優名は引用者追記)

82分の物語のしっかりした「骨格」はこのとおりだ。しかし、人間も動物も映画も「骨」だけでは成り立たない。
内臓があり、肉があり、脳が必要で、それらが組み合って「個性」や「魅力」になる。
それが可能なのも、繰り返しになるが、「骨格」がしっかりしているからだ(「骨格」がしっかりしていないと、全てを支えきれずに崩壊してしまう)。

などと書いたが、実際のところ、本作を語るのは難しい。
何故ならば、本作は幾重にも入り組んだ層が絡み合う「メタフィクション」であり「セルフパロディ」(わかりやすく云えば「楽屋ネタ」)だからだ。

そもそも、このストーリーからして、そうなのだ。
本作パンフレットの「PRODUCTION NOTES」によると……

4人の監督領域の学生が「修了制作でどんな映画を作るか」という企画プレゼンを教授や学生の前で行う。(略)蘇さんはロードムービーをやりたいと発表するが、予算がかかるのと、藝大には「俳優に車を運転させてはいけない」というルールが存在するため、車運転が必須なロードムービーは難しいのではないかという指摘が学生や教授から飛び交う。それを受けて、監督の蘇さんと脚本の上原さん、石井さんの3人で相談した結果「ロードムービーを撮りたいけれど撮れない話」にすればいいんじゃないか、という本作の骨子が完成していく。

これがそのまま主人公の小島桐子に投影されている。
しかも、それを商業映画『猫は逃げた』(今泉力哉監督、2022年)で主役の一人に名を連ねている山本奈衣瑠(本作でも彼女は脱走した猫を必死で探している)が演じていて、それを蘇監督が撮って映画にしているのだ。
桐子はしきりに「撮りたいなぁ」と呟くのだが、それも蘇監督に繋がっている。

冒頭のドライブのシーンは、早々に「グリーンバック」であることが明かされ、実際はバス移動をしているし、ロケハンに出掛けた砂浜で車は故障して使えなくなる。

あ、いや、これは冒頭のシーンではなかった。
冒頭は上映開始が迫った映画館に男女のカップルが滑り込んでくるシーンだった。
台湾人と思われる女性は『日本の映画館は静か。台湾はうるさいし、エンドロールも観ずに帰る』と男に話し、スマホをいじっていて聞いてなさそうな男は、上映が始まったとたん、おもむろに弁当箱(!)を開け、ポテトチップス(!)や新鮮なキュウリ(1本まるごと!)、やきそば(そーいえば、桐子も食べていた。何せやきそばは『天秤座のラッキーフード』なのだから)を取り出すのだ。
で、後ろの客に「うるさい」と怒られるのだが、まさに、上映前に映画館で流れる注意事項を、映画自ら破っているのだ。

この映画館は横浜の「シネマリン」という実際にある映画館をそのまま使っているのだが、ストーリーに関係なく、唐突に映画館の支配人とスタッフの会話が挿入されたりする(タイムカードのシーン、撮影稿には『ゆっくりとドアが閉まる』としか書かれていないが、タイムカードを元に戻せず諦めるのは演出だろうか?)し、しかも、そのスタッフが劇場を掃除していてキュウリを発見してしまうし。

さらに、東京藝大で蘇監督の恩師にあたる諏訪敦彦監督が、ちゃっちな模型の後ろで怪獣の着ぐるみを着てガオガオ吠えているというのも笑える。

こうした遊び心がふんだんに盛り込まれた本作はしかし、真面目な「セルフパロディ」でもある。
上述したとおり、桐子はしきりに「撮りたいなぁ」と呟くのだが、俳優にセリフの意図を問われて「わかりません」と答えてしまい、俳優を不安にさせたりもする。
こうした強い想いが先走って肝心の中身に意識がいかないとか、空回りするといったことはクリエーティブな現場にはつきものだろうし、きっと蘇監督もそうに違いない。
本作はだから、そういった監督(自身)の「あるある」を描きつつ、なんと、蘇監督自身が映画の中でハンディビデオカメラ片手に『映画を撮ってます』と言って、苦悩する桐子に笑顔を要求するという「自分ツッコミ」をする(その後、通りかかった祖母と孫という2人づれの笑顔を撮る監督は『これも映画』と堂々と言い放つ)のだ。

本当に真面目な「セルフパロディ」である証しは、喫煙所のシーンに表れる。
つまり、「此処ではない何処かへ向かうロードムービーを撮る監督は、何処かではない此処、撮影現場から逃げてはいけないと、腹を据えなければならない」という覚悟を、山本演じる桐子を撮ることによって蘇監督は表現しているのだ。

で、『あるアイデアを思いつ』いた桐子は、いよいよ実際の撮影に臨む(ここで唐突にタイトルバックが映し出されるのだが、その題字が、桐子の映画に出演する俳優役の荒木知佳の手によるものだというのも洒落ている(彼女は映画『春原さんのうた』(杉田協士監督、2022年)で見事な書道パフォーマンスを披露している)。

映画は、いよいよクランクインした映画のファーストカットの撮影シーンがそのままスクリーンに映し出される……のをシネマリンで観ているというシーンになる(つまり冒頭に戻ったともいえるが、冒頭でスクリーンに映し出された映像は実際には撮影されなかったシーンであり、だから単純に戻ったのではなく、何だかよくわからない感じで捻れているのだ)。

「映画の中の映画」は終わった。「映画の中の映画館」は明るくなり、「映画の中の観客」たちの姿が見える。

本作のラストカットではたくさんのお客さんが映画を見ているが、カメラマンの齋藤さんが「スタッフもみんな座っちゃえばいいんじゃない?」と言ったので、キャストに加えて、スタッフもほぼ全員最後のカットに出演している。

「PRODUCTION NOTES」

「映画の中の観客(≒本作スタッフ)」たちは席を立つ。
それを「本当に映画を観ている」我々は、暗い映画館の席に座ったまま唯々見送る。
「本当に映画を観ている」我々より「映画の中の人たち」の方が、先に帰ってしまうのである。
誰もいなくなった映画館の客席が映し出されたままエンドロールが流れる。
台湾だけでなく、日本人だって『エンドロールも観ずに帰る』のである。


メモ

映画『走れない人の走り方』
2024年6月1日。@シモキタ エキマエ シネマ K2(アフタートークあり)

うまく書けなくて、もどかしい思いでいっぱいだ。
本当にネタ満載で、「あれも書きたい、でもあれを書くなら、これを説明しないと」みたいなことだらけで、私自身がまさに本文に書いた、『こうした強い想いが先走って肝心の中身に意識がいかないとか、空回りする』という桐子そのものを実体験することになった。

表題写真、左からプロデューサー役の早織さん、蘇鈺淳監督、桐子の映画に出演する俳優役の五十嵐諒さん。

急遽登壇された蘇監督は、ドイツの映画祭に出席した後、成田空港から下北沢のこの映画館に直行したとのこと。

印象的だったのは、最終盤、クランクインの準備をするスタッフたちを見つめる桐子にプロデューサーが声を掛けるシーンで、プロデューサー役の早織さんが『始まったらもう、やるしかないから』というセリフを、現場で自分の判断で『始まったね』と変えたという話だ。
「撮影もだけど、その後公開された後も(こうしたアフタートークなどを含めて)大変なことが続く。そういったことへの覚悟を考えると、『始まったらもう、やるしかないから』というセリフは違うんじゃないかと思った」


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