ただ傍にいて寄り添うこと/寄り添われていること~映画『春原さんのうた』~

2020年から始まったコロナ禍により、仕事や勉強、果ては飲み会までオンライン化が急速に進み、それに慣れるに伴って、21世紀において通勤・通学やリアルな会食は、もはや不要ではないかといった風潮が出始めている。
その是非は今の段階で拙速に判断できないとは思うが、しかし、カメラやマイクが捉えたものが均一にデータ化された電気信号で、他人の些細な気遣いや、さりげない労りのようなものが伝えられるだろうか。
人間は、そういった他人の些細な気遣いや、さりげない労りによって生きる力を得ているのではないだろうか。

コロナ禍で改めて感じたこと。
移りゆく四季や風・雨・日差しといった自然を感じたり、近所の子どもたちのはしゃぎ声や道行く人々の会話、自動車やバイクなどの生活音までもが、実は、自分の生きる力に繋がっていたこと。


映画『春原さんのうた』(杉田協士脚本・監督、2022年。以下、本作)は、私が観たフィクションで、おそらく最初の「コロナ禍」を舞台にした作品ではないかと思う。


春、ピンクに色づく桜の木を見ながらカフェの2階で向かい合う、2人の若い女性の姿から物語は始まる。

場面が変わり、コロナ禍の初夏。
あの春にカフェで桜を眺めていた女性の1人である主人公・沙知(荒木知佳)が、知り合いらしい男性が引き払うつもりだったアパートの部屋を引き継ぐ(彼の荷物がそのまま置かれている)かたちで、転居してくる。
あの春に一緒にいた女性の姿はない。

沙知は、どうやら喪失感の中にいる…らしい。
あの春に一緒に桜を見た女性と関係がある…らしい。
沙知の喪失感は、友人・知人だけでなく、親戚にも伝わるほど深いもの…らしい。

「…らしい」とイチイチ書いているのは、本作中で何の説明もないからだが、約2時間の物語で何かが説明されることはない。
我々観客は、登場人物たちがそうするように、喪失感を抱えた(らしい)沙知に、ただただ寄り添うだけだ。


引っ越した沙知は、マスクをして出掛け、同じようにマスクをしている乗客たちとともに電車を乗り継ぎ、あの春2人で桜を見たカフェへ向かう。客ではなく、店員として。
カフェに入ってくるお客さんもマスクをしていて、入店時にはアルコールで手指の消毒をする。
沙知は、常連客である女優のセリフ覚えに付き合ったり、道に迷っている女性を目的地まで案内したり…
そして仕事が終われば、またマスクをした人たちにまぎれ、電車に揺られ帰宅する。

アパートは、東京郊外(と言っても、最寄駅が「小竹向原」だから都心に近い)の、風通しの良い2階の部屋。
外廊下に目隠し板があるのを幸いに、沙知は、日中ドアを開けっ放しにしている。
風通しの良い部屋の窓を開けていれば、夏でも快適に過ごせる。
開け放ったドアや窓からは、行き交う自動車やバイクの音、夕方には下校中(?)の子どもたちの声が聞こえてくる。
テレビもない部屋で、沙知はそれらの生活音をBGMにうたた寝をする。
何だか、懐かしいような羨ましいような日常を沙知は過ごしているように思えるが、そうではないことを、時折沙知を訪ねてくる人たちが示唆する。
とはいえ、彼ら/彼女らが何か直接的な言動をするわけではない。

訪ねてきた友人や伯父・伯母が手土産に持ってきたお菓子やケーキを一緒に食べ、時には近所のスーパーで食材を買い、一緒に昼食を作る。ただそれだけ。
しかし、彼ら/彼女らは気楽に沙知を訪ねてきたわけではなく、沙知が抱えた何かを心配し、さりげなく気遣っている。
誰も直截的な話をしたり、言葉で沙知を慰めたり励ましたりしない。

時には沙知の方から誰かの家へ訪ねていくこともある。
家人は何も言わず、ただただ沙知の訪問を喜び、沙知の写真を撮って家族だか知り合いだかに送信する。それが誰かを喜ばせたり安心させたりするのだろう。たとえ、本当はそこに写っているはずの誰かが不在でも…

ある時は伯父のバイクの後ろに乗り、途中で雨に降られながらツーリングをする。伯父の背中の温もりが伝わってくる。

沙知は人の体温を感じながら、徐々に喪失感を癒していく。

とはいえ、事はそう簡単ではない。
訪ねてくる人々は沙知の喪失感を知っている。知っているからこそ、気遣い、労る。
沙知もそれがわかっているからこそ、その気遣い・労りに心底感謝しながらも、さらに心配を掛けないように、どこか無理をしながら気丈に振る舞ってしまう。
だから、転居したことを知らずに前の住人男性を訪ねてきた女性の自然な振る舞いに涙してしまう。その女性が沙知の事情を知らないが故に、沙知は無理する必要がなく、だからこそ素直な感情を表に出すことができたのだろう。

訪ねてくるのは、どうやら「目に見える人」だけではないようだ。
時折、沙知の部屋に沙知ではない女性がいるカットが挿入される。
どうもあの春に沙知とカフェにいた女性のようだが、しかし彼女が物語に関わってくることはない。
もしかしたら、彼女はこの世の人ではないかもしれない。


転居先不明の判を見つめつつ春原さんの吹くリコーダー

東直子『春原さんのリコーダー』(ちくま文庫)より

本作は、歌人・作家の東直子氏の短歌から着想を得た杉田監督のオリジナル作品である。

リコーダーは押入れの中から見つかる。
リコーダーがあれば、吹いてみたくなるのが日本人の習性(たぶん)で、この部屋に訪ねてきた人々が思い思いにリコーダーを吹く。
しかし、このリコーダー。前の住人男性(ギターケースを抱えていたからミュージシャンかもしれない)のものなのか、それとも時折部屋に現れていた春原さんとおぼしき女性が置いていったものなのか…
答えは登場人物にも観客にもわからない…いや、もしかしたら沙知にはわかっているのかもしれない。

最終盤、短歌と同様に「転居先不明」で戻ってきた「春原雪様」と宛て書きされたハガキが登場する。
沙知は友人の助けを借りて、そのハガキを届けたかった人への想いに区切りをつける。
様々な人のさりげない気遣いや日常生活を経て、沙知はようやく最初の区切りをつけられた。
沙知はこれからゆっくり、時間を掛けて、春原さんに関する様々な想いに(決して忘れたりはぜず)折り合いをつけていくのだろう。
その過程にはいつも誰かがいて、沙知を訪ねてきたり、寄り添ってくれたり、気遣ってくれるはずだ。


本作を観ながら、何度も泣きたくなった。
それは、沙知の喪失感への共感なのか、コロナ禍で叶わなくなった、人を訪ねたり訪ねられたりといった日常への郷愁なのか…

それ以前に、「誰かをさりげなく気遣う/誰かにさりげなく気遣われる」「誰かを案じて寄り添う/寄り添われる」という人の温もりの大切さを思い出したからではないか。

それはつまり、「同じ空間で誰かと(言葉ではなく)想いを共有する」ことであり、だからきっと、オンラインでは難しいだろうし、文字だけのSNSではそれこそ「何も言わずに寄り添うことで救われる」感覚は理解されない。
しかし実は、我々は「同じ空間で誰かと想いを共有する」ことによって誰かに生かされているし、(自分では気づかないけれど、きっと)誰かを生かしているのではないだろうか。

だから、「同じ空間で誰かと想いを共有する」ことができる映画館で本作を観たことに、私は泣きたくなったのだろう。


おまけ

会話劇の本作は、観客から「即興で撮られたものですか?」と多く聞かれるくらい俳優の演技やセリフ回しが自然なこともあり、観客自身も沙知に寄り添っている感覚になり、逆に訪ねてくる人々によって沙知と一緒に寄り添われているという不思議な感覚にもなる。

ナレーションや説明セリフが一切なく、物語の背景が理解できない本作だが、それで全く問題がないどころか、それだからこそ「不思議な感覚」を共有できる。

だから本当は解説なんか野暮なのだが、参考のため、杉田監督のインタビュー記事を少し紹介しておく。

映画は偶然の連続から生まれた。短歌を原作にした前作(「ひかりの歌」2019年)の縁で東(直子)と出会い、手術を終えた旧知の俳優、荒木知佳へのお祝いとして映画を企画する中で原作となる一首を思い出した。(略)
当初は美術館を舞台に脚本を書いていたが、コロナ禍で撮影が困難に。そんなとき、撮影予定だったアパートの部屋を引き払うためそのシーンだけ撮れないかとの話があり、元々書いていた物語の2年後と想定して新たな脚本を仕上げた。
美術館の仕事を辞め、カフェで働き始めた沙知(荒木)が主人公。アパートに引っ越して新生活を始めたが、もう会うことの叶わない春原さん(新部聖子みなこ)が心に残っている。

朝日新聞 2022年1月7日付夕刊
杉田監督インタビュー記事


映画とマスク

『私が観たフィクションで、おそらく最初の「コロナ禍」を舞台にした作品ではないか』と書いた。
「今」を扱っているとおぼしき映画やドラマでも、登場人物や街ゆく人々がマスクをしている作品は見掛けない(あるだろうが、主流ではなさそうである)。
この「マスクを着けるか問題」は今後のフィクション製作において、問題というか議論の対象になるだろう。
実際、『愛のまなざしを』(2021年)の公開時に監督の万田邦敏氏が、『ドライブ・マイ・カー』『偶然と想像』で2021年の映画界の話題をかっさらった濱口竜介監督と対談した際に、この問題に触れている。

映画のリアルを考える際に、万田監督が今、悩んでいることがある。人々にマスクを着けさせるか否か、だ。
万田「僕の映画はフィクション度が高い。マスクが出てくると、フィクション性を壊すことになります」
濱口「現代を生きる私たちには『今はかりそめの状況なんだ』という共通理解があると感じるんです。だから、僕はそこをリアルに表現しなくても大丈夫じゃないかと思っています」
万田「例えば何年か先に2020年の映画を作る時は、マスクありにするでしょう。戦争の映画では国民服とかモンペとかを着させています。マスクがないと、それこそリアリティーがないよね、となる。でも今、現代の映画を作るとなると、難しいですよ」

朝日新聞 2021年11月19日付朝刊
万田邦敏監督×濱口竜介監督 対談記事


メモ

映画『春原さんのうた』
2022年1月22日。@ポレポレ東中野

「まん延防止等重点措置」発出中だったが、土曜日昼の映画館は7割くらいの入りで、本作の関心の高さがうかがえた。

鑑賞後、京王線に乗って行きつけの飲み屋に向かった(私は沿線住民ではない)。
車中、本作で沙知が働くカフェ「キノコヤ」(映画撮影用のカメラの上に2つのキノコが乗ったロゴで、本作用に作ったと思って「センスあるなぁ」と感心していたら、店主役の女性が営む実在のお店らしい)が、京王線の「聖蹟桜ヶ丘」にある(というか、沙知がこの駅で降りてハガキを投函する)のを思い出し、その偶然が何だか嬉しかった。
まぁ、私は聖蹟桜ヶ丘まで行かず途中の「調布」で下車したのだが…

余談だが、聖蹟桜ヶ丘はスタジオジブリの名作『耳をすませば』に所縁があり、『聖蹟桜ヶ丘駅西口広場の交番横には(略)「耳をすませばモデル地案内マップ」が設置されている』(出典:Wikipedia)。
また、聖蹟桜ヶ丘がある東京都多摩市は、毎年開催される「TAMAシネマフォーラム/映画祭」を主催している。
沙知は、そんな「映画の街」のカフェで今日も働いているだろう。


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