現代版・民話の伝承~映画『緑のざわめき』~

映画『緑のざわめき』(夏都愛未監督、2023年。以下、本作)を観ながら、現代を舞台にした地方共同体の土着的神話を、メジャーな俳優を使って、しかも、ミニシアター系の映画というのは、今どき珍しいのではないか、とぼんやり考えていた。
もちろんこれは、そんなに多くの映画を観ておらず、また、文学にも疎い私の個人的感想であるので、間違っているのかもしれないが……

公式サイトによる「あらすじ」はこうだ。

過去の痴漢被害のトラウマを抱えて生きてきた響子(松井玲奈)は、病を機に女優を辞め、東京から生まれ故郷のある九州に移住しようと福岡にやってきて、元カレの宗太郎(草川直弥)と再会する。
異母姉の響子と繋がりたいと、彼女をストーカーする菜穂子(岡崎紗絵)は、異母姉妹ということは隠し、響子と知り合いに。
施設に預けられていて、8年前から佐賀県嬉野で叔母の芙美子(黒沢あすか)と暮らす高校3年生の杏奈(倉島颯良)は、自分宛の手紙を勝手に読んだ叔母に不信感を募らせていた。「まずは話してみませんか?」という支援センターの広告を見て、身元もわからない菜穂子からの電話に、悩みを打ち明け始める。同じ頃、杏奈に思いを寄せる透(林裕太)は、杏奈とうまくいくよう、集落の長老・コガ爺(カトウシンスケ)に相談しに行っていた…
就職活動がうまくいかない中、 地元・嬉野に戻り、親友の保奈美(松林うらら)に就職の相談をする響子は、ひょんなことから自分と杏奈が異母姉妹ということを知ってしまう。菜穂子は、宗太郎に恋焦がれる絵里(川添野愛)等いつもの女子会メンバーとの旅先を嬉野に決め…

冒頭に書いたとおり、本作は現代を舞台にし、松井玲奈、岡崎紗絵といったメジャーな若手俳優を起用していることから、(ある程度は)華やかな映画を期待させるが、かなり暗く、重たく、難解な物語だったことに大きく戸惑うことになる(期待した分、落差が激しいということも大きく作用しているだろう)。
これは一体、どういう話なのか?

本作パンフレットに掲載された夏都監督のインタビューを読んでみる。

佐賀の景色を見て、大江健三郎や中上健次の文学が頭に浮かんできて

本作パンフレット

早稲田大学文学部文芸科で「創作教室」の演習を担当していた作家の三田誠広氏が自身の講義で、『私が勝手に、(東西の)横綱を二人、選びました』と紹介した2人が、大江と中上なかがみである。何の横綱か?

私的体験を掘り下げて、より深い実存を追求する。同時に、その私的体験を社会的に、さらに歴史的にとらえて、そこに神話的な構造を発見する、ということです。そうすれば、個人的な体験の奥にひそむ普遍性があらわになり、きわめて個人的な素材を用いながら、深い哲学をもった大きな小説が実現できるのです。

三田誠広著『書く前に読もう 超明解文学史』(朝日ソノラマ、1996年)

本作が単なる「互いに存在を知らなかった異母姉妹が出会う」といった話ではないのは、つまり、大江・中上を出発点とする『神話的な構造』を持っているからだ。

女性の連帯を描きたいとすごく思っていて、中上健次など文学に影響されたこともあって三姉妹にしたいと思っていました。「血が半分繋がっているのに、何かの圧で離れ離れになってしまっている人たちがまた一つになる」というのを描きたくて、異母姉妹にしました。

本作パンフレット

ということで、本棚から中上健次著『枯木灘』(河出文庫、1980年)を引っ張り出してみる。私が読んだのは30年ほど前で全く内容を覚えておらず、だからといって、このために読み返す気もないので、とりあえず巻末に載っていた系譜を参照する。

確かに、『枯木灘』(というか、それを発端にした所謂「紀州サーガ」全般)において、主人公の秋幸には父親の違う姉と兄がいて、その姉は三姉妹だったりする。
というか、系譜によると秋幸の父(悪名高き『はえの王』)は、3人の女性との間に子どもをもうけている。
ただし、だからと言って、秋幸=本作の主人公・響子というわけではなく、秋幸に近いのは恐らく、菜穂子ではないかと思われる。

それはさておき、本作はつまり、「紀州サーガ」ならぬ「嬉野サーガ」とも呼べる、地方の狭い共同体の土着的神話(民話)で、その中でしばしば女性が「巫女」的に扱われる役割を、この三姉妹が担っているとも思える(ちなみに、民話では「巫女」の裏面として「鬼(山姥やまんば)」がいて、まさに、透は山姥に襲われる)。

土着的神話(民話)において、響子は父親が原因で、ある意味において共同体から排除される(これは、山田杏奈主演の映画『山女』(福永壮志監督、2023年)に近い)。その彼女が再び共同体に迎え入れられたのは、病気が原因で、シンボルとしての「女性性」を失ったからである。

さらに、民話が民話たり得るのは、その共同体に余所よそ者(たとえば「旅人」とか)が侵入(或いは、誘い込まれる)からでもある。その余所者が絵里・まゆ(加藤紗希)・彩乃(渡邉りか子)の「女子会仲間」である(本作の場合、共同体に因縁のある菜穂子によって誘い込まれる構造)。
その「旅人」を共同体(の幻)から救い出す役割を担うのが、「巫女」の縁者でもある宗太郎ということになる。

この異母姉妹が「巫女」であるのは、浜辺に立つ鳥居の前でのラストシーンが示している。
鳥居の左右に響子と杏奈が、その2人の中間で鳥居から離れたところに菜穂子が立ち、見事に正三角形の結界が作られる。
その結界が形作られたことにより、3人の「巫女」は神様によって姉妹と認められ、菜穂子は鳥居(姉妹)に近づくことを許される、という感動的な結末に到るのである。


本作が、壮大な土着的神話(民話)(の一部分)であることは、本作パンフレットで『実は最初に頂いた脚本が、四時間分ぐらいの、『ロード・オブ・ザ・リング』みたいな、読めども読めども終わらない超大作だったんです』という松井玲奈や、『(監督が菜穂子についての資料を事前に作ってくれたので)すごく助けになりました』という岡崎紗絵の証言が物語っている。

ちなみに、夏都監督の『三人という人物構成単位への偏愛』については、本作パンフレット及び朝日新聞の映画評(2023年9月8日付夕刊)で、映画評論家の喗峻創三氏が指摘しているとおりだ。

(夏都監督の長編映画デビュー作である)『浜辺のゲーム』で堀春菜らが演じる大学生は、三人で貸別荘に滞在していた。そこにやってくる元バンド仲間も、三人だった。そして『緑のざわめき』でも、異母姉妹は三姉妹という設定。また物語を起動させた女子会仲間も、三人で構成されている。

本作パンフレット


本作と関係がないが、個人的に嬉しかったのは、響子が地元で幼馴染の鈴香(日高七海)と再会するシーン。
響子は「東京で役者をやっていた」という設定だが、松井玲奈初主演作『幕が下りたら会いましょう』(前田聖来監督、2021年)での彼女は、劇団主宰者だった。
その時、幼馴染で劇団の看板俳優・早苗を演じたのが日高七海だった。
彼女は、そのパンフレットにこう答えている。

早苗は多分結局、劇団を辞めるんだろうな。そして何度もあの劇団の日々を鮮明に思い出すんだろうな。

『幕が下りたら会いましょう』パンフレット

本作において、まさに早苗が劇団を辞めたこと、しかし、幼馴染としての仲は切れていなかったことを知った気がして、少しホッとしたのである(改めて言うが、本作とは全く関係がない)。


メモ

映画『緑のざわめき』
2023年9月6日。@ヒューマントラストシネマ渋谷

『現代を舞台にした地方共同体の土着的神話を、メジャーな俳優を使って、しかも、ミニシアター系の映画というのは、今どき珍しいのではないか』と冒頭に書いたが、映画慣れしていない、或いは俳優目当てで来たような観客には、かなり難解に映ったのではないか。
ということで本稿では、「民話」として本作を語ってみた。おこがましいが、鑑賞の一助になれば幸いである。

こういった土着的神話の映画は、かつてはたくさん作られていたと思うのだが、21世紀になって、ミニシアター(民話・文学)系では本文にも挙げた『山女』、メジャー(現代・エンターテインメント)系では『天間荘の三姉妹』(北村龍平監督、2022年)といった感じで、分断されてしまったような気がする。




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