誠実で丁寧で"あつい"青春映画~映画『あつい胸さわぎ』~
映画『あつい胸さわぎ』(まつむらしんご監督、2023年。以下、本作)は、安易に感想が書けない。
難解な映画ではない。その逆で、むしろ誠実で丁寧に作られた「"あつい"青春映画」だ。
それに倣って丁寧に言えば、「書けない」というのは、「文字にすることができない」、或いは「文字にしてしまうことを躊躇う」ということになる。
それは、私が「オヤジ」だから、と言われるかもしれない。
しかし、本作を観た女性や若者もきっと、文字にすることを躊躇ってしまうだろう。
それがきっと、本作のパンフレットや公式サイトに、他の映画なら当たり前にある、著名人からの推薦コメントが全く掲載されていないことにつながっているのかもしれない。
とは言え、男である私はやはり、文字にしてしまうことを躊躇っているのではなく、絶対的に「書けない」。
同様に、本作の原作(横山拓也)・脚本(高橋泉)・監督の3人も男性で、だからこそ、本作が誠実・丁寧に作られているのである。
本作は、タイトルで示唆されているとおり、女性にとっての「胸」、その切実な意味を扱っている。
だから、女性は本作を観て「安易に感想を書くことを躊躇う」だろう(それは本作が、「若いがん患者が主人公の、お約束的フィクション」ではなく、「(「胸」の持つ切実な意味合いを媒介にして)自分自身に置き換え可能なリアル」を映しているからだ)。
主人公の武藤千夏(吉田美月喜)は、入学したばかりの大学が実施した任意の乳がん検診を興味本位で受け、結果、初期の乳がんであると宣告される。
「緊急性はないが、将来の出産や乳房の切除の可能性も相談しながら、ちゃんと治療しましょう」と言う医者に、千夏の母・昭子(常盤貴子)は、娘の「命」を優先し、転移の可能性を減らすために乳房の切除を希望するが、それに娘は深く傷つく。
「まだ好きな人に胸を触られたことがないのに」と言う千夏は、実は、初恋の相手だった川柳光輝(奥平大兼)と大学で再会し、「大人の恋」が芽生えそうな予感に浮かれていた。そんなタイミングでの「乳がん宣告」だった。
この、「まだ好きな人に胸を触られたことがないのに」という気持ちや、転移の危険を承知しながらも胸(の膨らみ)にこだわる気持ちは、私を含め、男たちには絶対にわからないのではないか。
たとえば、参考にと取り出した、三田誠広著『いちご同盟』(集英社文庫、1991年)に以下のような場面があった。
繰り返しになるが、本作は本当に誠実に丁寧に作られている。
その誠実・丁寧さは、映画や物語を作りたい人のお手本となるだろう(そういう方は、一度純粋に本作を観た後、もう一度映画館でストーリーとカットと構成を意識しながら観なおすことをお勧めする。テクニカル的にもよくできた映画だとわかるはずだ)。
まず、カットやエピソードに無駄がなく、全てに意味を持たせている点が挙げられるだろう。
ファーストカットの千夏は、上半身はブラジャーを着けただけの姿で、見つからないTシャツを探している。
内見に行ったアパートの部屋で、光輝と二人で床に横になるシーンでは、さりげなくもしっかり、千夏の胸の膨らみを捉える。
中学時代の光輝が放った心無い一言もそうだし、昭子の職場に転職してくる男性(三浦誠己)が、前の職場を追われたエピソードも然り。
千夏にとって憧れの大人である「トコちゃん」(前田敦子)と、(大人の女性に憧れる年頃の)光輝が関係を持ってしまうというのは、ある意味定型的展開ではあるが、定型的であるが故に余計な説明をすることなく、千夏が初めて味わう「恋の痛み」がストレートに観客に伝わる。
物語に関与する登場人物たち全てに、ちゃんとした意味が与えられているのもそうだ。
千夏や光輝の幼馴染で知的障害を持つ「ター坊」(佐藤緋美)の母親(石原理衣)もそうで、車の中で彼女と話すシーンの昭子の表情は観客の心に刺さるし、それは彼女の境遇があってこそ成立するものである。
その母親の境遇を成立させるための存在に思われた「ター坊」は、ラスト直前に、モヤモヤしたわだかまりを残しそうだったストーリーを一瞬にしてクリアにする。
彼が発した、観客から笑いが起こるほどインパクトのある短い一言は、その後のラストシーンとなる千夏の言葉を引き出し、観客全員が千夏を、そして自身を応援するパワーとなる。
ブラックバックになりエンドロールが流れるのを見ているうちに、千夏の胸の内の力強い叫びが蘇り、私の胸が張り裂けそうになる。
そう、がんの行方がどうであれ、光輝との恋の行方がどうであれ、彼女が胸躍らせ、胸高鳴らせる、『胸さわぎ』の"あつい"青春は、今、始まったばかりだ。
メモ
映画『あつい胸さわぎ』
2023年2月1日。@新宿武蔵野館
全国の映画館で割引サービスとなる「ファーストデー」のこの日、9割の入り。評判の高さをうかがわせた。
本稿を書くのに、かなり苦労した。
このSNS全盛の時代において、「気の利いた短文で何かを書く」ということが当たり前、というか、半ば強要されているような風潮になっているが、「安易に感想が書けない」という畏れを認めることが大事ではないか。
きっと、世の中について、いや、それ以上に自分の中にある何かについて、「短い言葉で言い切れる」ことの方がずっと少ないはずだ(「ター坊」のセリフはずっと少ない方の奇跡の一言だ)。
だから、何かを言うためには逆に、「短い言葉では言い切れない」と観念し、言い淀みや回り道をしながら、えっちらおっちら言葉を継ぎ継ぎするのを厭わないことが必要なのではないだろうか。
と自分に言い聞かせながら、本稿を何とか、ここまで持ってきた。
そうやって書いた本文で、本作を誠実で丁寧と評したが、まつむら監督は本作の意図をこう説明している。
全ての俳優がその監督の想いを汲み、素晴らしい表現をした。
常盤貴子さんは、愛情深い関西のオカンそのものだった。
前田敦子さんは若い女の子が憧れ、別の意味で若い男の子も憧れる女性にピッタリだった。
若い男の子といえば、光輝役の奥平大兼さん、崇(ター坊)役の佐藤緋美さんも、素晴らしかった。
監督は二人をこう評している。
そして何より、スクリーンに映る主演の吉田美月喜さんのキラキラ輝く圧倒的な生命力が素晴らしかった。
彼女だからこそ本作が、お約束の「病魔に侵された悲劇のヒロイン映画」ではなく、「純粋で"あつい"青春映画」として成立できたのだ。
彼女は、2022年に舞台『エゴ・サーチ』(鴻上尚史作演出)に主演していて、私はその時の感想をこう書いた。
あの時はわからなかったが、今ならわかる。
確実に「吉田美月喜の演技が良かった」のだ。
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