映画『ケイコ 目を澄ませて』

50歳を過ぎたオヤジのくせに情けないのだが、何十年かぶりに、泣きながら映画館を出た。

2022年は『コーダ あいのうた』が米アカデミー賞作品賞を獲ったり、日本でも深田晃司監督の『LOVE LIFE』が公開されたりと、ろう者を扱った映画が話題になった。
女性ボクサーを扱った映画では、日本には『百円の恋』(足立紳脚本・武正晴監督、2014年)という「号泣必至で映画館で見られない」超名作がある。

「ろう者の女性ボクサー」を扱った映画『ケイコ 目を澄ませて』(三宅唱監督、2022年。以下、本作)は、しかし、それらの「イイトコ取り」ではない。
何より、主人公のケイコ(岸井ゆきの)がボクシングをする上で、ろうは全くの障壁になっていないし、ボクシングが強くなっていくわけでもない。

本作は、「ろう」とか「ボクシング」といった特定の何かをアピールするものではなく、本当に普通過ぎて、我々が気づかなくなってしまっている普遍的なものを思い出させてくれる。

一つは、「順風満帆なー或いは奇跡・魔法のようなインスタントなー人生はない」ということ。
ろう者でありながらプロになったケイコは、2戦目で辛勝したことよって、ボクシングへの恐怖心が芽生える。
物語は、2戦目から3戦目へ至る中でのケイコの逡巡が描かれる。

2戦目で植え付けられた恐怖心から、以前のような闘争心や集中力が無くなりボクシングから逃げようともしたケイコだが、それでも毎日のトレーニングは欠かさず、それをノートに記録していた。
終盤にボクシングジムの会長の妻(仙道敦子)によって代読されるノートには、たまに自分の欠点や課題が綴られているが、概ね「何キロ走って、こんな練習をした」ということが、夏だろうと年末年始だろうと、ただただ淡々と書かれているだけだ。
何かを成すのに、奇跡や魔法・近道などなく、魔球や必殺技もないのである。
ただ淡々と地道に毎日の努力を欠かさない。
こんな当たり前の事すら、我々は映画から教えてもらわなくてはならなくなってしまった。

そしてそれは、自分だけではない。
後ろ向きの気持ちになっていたケイコが目を覚ましたのは、ジムの会長(三浦友和)が一人で姿見を磨いている姿を見たからだ。
姿見の前で会長と一緒にシャドウボクシングをしながら、ケイコの目はどんどん輝きを取り戻し、澄んでいく。
それはケイコが、一人で強くなっているわけではなく、会長やトレーナーを始め、他の選手や家族・友人たちに支えてもらっていることに気づいていくからだ。
そこから先は、涙なしに観られない。

「我々が気づかなくなってしまっている普遍的なもの」のもう一つは、「生活音」だ。
本作、驚いたことに劇伴(劇中で流れる音楽)がない、どころかエンディング曲もなく、最初から最後まで、ケイコには聴こえない「生活音」だけで構成されている。

普段は当たり前過ぎて気づかなくなっているが、我々の日々の暮らしにおいて、無音の中で過ごすことはほとんどない。
たとえば家で動いているファンのモーター音だったり、自分の衣擦きぬずれだったり、普段意識していなくても、何らかの音が常に鳴っているはずである。
嘘だと思ったら、本作を「バリアフリー字幕版」で観てみると良い。
「バリアフリー字幕」は、聴覚障害者の方のために、「どんな音が鳴っているか」「誰が喋っているか」まで字幕で説明してくれるのだが、日常生活において本当に様々な音が我々の耳に届いているかが、よくわかるはずだ。

「バリアフリー字幕版」でなくても、エンドロールを観れば、よくわかる。
一般的なブラックバックにエンディング曲ではなく、ケイコが住む東京の風景が映し出され、そこで聞こえる音が流れることに驚愕してしまう。
私たちは、どこかの映画ではないが、もっと日常生活の中で「耳を澄ませて」みるべきではないか。

私は、エンドロールで流れる風景と音に圧倒され、ありふれて気にも留めない日常がたまらなく愛おしく感じ、涙が止まらなくなった。
だから、泣きながら映画館を出ることになってしまったのである(本当に恥ずかしかった……)。


メモ

映画『ケイコ 目を澄ませて』
2022年12月17日。@池袋・シネマロサ

もう、岸井ゆきのさんは凄すぎる。
彼女(というか本作自体)は耳が聞こえないことを殊更強調しないし、ろう者である困難についてもほとんど描かれない。
しかし、本当はろう者でないはずの彼女が、本当のろう者に見える。
それは、表情と動きだ。
音のない世界に過ごしている人は、何を考えているか、表情から読み取れない。
耳が聞こえる人は、聞こえたような認識はなくても、無意識のうちに周囲の音に反応して、表情が変化したり、体が動いたりする。
劇中のケイコは、それがない。
こんな演技は、もしかしたら美内すずえ先生の『ガラスの仮面』で北島マヤがヘレン・ケラーを演じて以来かもしれない。
「ゆきの……恐ろしい子……」

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