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「私たちは、世界の片面"すら"見えていない」~映画『やがて海へと届く』~

映画『やがて海へと届く』(中川龍太郎監督、2022年。以下、本作)は、とても良く出来た物語だ。
無駄な挿話やセリフ、シーン、カットが一切ない。
それは、全ての物語、セリフ、シーン、カットが意味を持ち、有機的に繋がっていることを意味する。


物語は、東日本大震災から5年後の東京の高級ホテルのレストラン(とおぼしき店)で働く真奈(岸井ゆきの)が、たまたま一人旅に出掛けて津波にのまれてしまった親友・すみれ(浜辺美波)と過ごした日々を回想する形で進む。

大学入学当日に強引なサークル勧誘に抗いきれず困惑する真奈は、助け船とも思えるような形で現れたすみれと意気投合し、親友となる。
すみれは、どんな時でもビデオカメラを手離さない。
すみれはその理由を、言葉を選びながら『私たちは、世界の片面しか見えていないと思うんだよね』と自己分析する。

このセリフは一見、劇中の、あるいは物語上のすみれが真奈に言った言葉として、すんなり受け入れられそうに思える(すみれが言いたかったことも、何となく察しがつく)。
しかし、本作最終盤、このセリフが実は「物語」として見ていた観客たちに向けられていたことが、物語上、いなくなっているはずのすみれ自身によって明かされるのである。
これにより観客自身が、今までの人生で教えられ信じ込んできた「物語の概念」自体を揺るがされ、寄る辺ない存在となってしまう。

「物語の概念」を信じ込んでいる我々観客は、小説や映画・ドラマなどの世界観が、作者や製作者が俯瞰した上で構築されていると思っているし、それを前提としているからこそ「物語として」楽しめる(ように教育されている)。
しかし本作は、それとて実は『世界の片面しか見えていない』のだと暴き出す。

物語は最終盤、いないはずのすみれによって「伏線回収による大どんでん返し」展開となる。
しかしそれは、「伏線回収」「大どんでん返し」「裏設定」といった、ありきたりのわかり易い「作為」ではない。

どれだけ製作者が「作為」を意図しようが、どれだけ観客が「裏読み」しようが、「人間は、本質的に”絶対に”『世界の片面しか』見ることができない」という絶望感を、本作は執拗に描いている(現実的にも「展開図」でもない限り、実体の両面を同時に見ることはできない。では、展開すれば両面が見られるかというと、展開したものは”実体そのものではない”ため無意味だ)。

もっと踏み込めば、本作は、「見えるはずの片面すら、人間はちゃんと見られない」ということをも描いている。

その象徴として中川監督は、すみれを探しに久しぶりに訪れた岩手県陸前高田市にできた巨大な防潮堤の前に真奈を立たせている。

震災から1、2年は何度もすみれを探しに来ていた真奈だが、時間の経過とともに足が遠のいてしまう。
そんな真奈が久しぶりにすみれを探しに行くことにしたのは、すみれの遺品(とは真奈は認めたくないだろうが)整理や勤め先の店長の交代などを経験し、「人間は、片面すらちゃんと見ていない」と気づき、「少しでも多く、すみれの片面を見たい」と思ったからだ。

しかし、そんな真奈の切実な希望を、無機質で冷徹な防潮堤が打ち砕く。
その防潮堤は、「片面すら見ていない、のではなく、見られない」という圧倒的な真実味を伴った絶望感として、威圧的な存在感で屹立している(本作が抱える救いようのない絶望感がスクリーンいっぱいに現出したようで、思わず嗚咽しそうになった)。

防潮堤について、中川監督は朝日新聞のインタビューにこう答えている。

現在の問題として震災を描こうと思いました。目に見える爪痕はほぼ消えましたが、僕は震災後とは別の衝撃を受けました。巨大防潮堤に象徴されるように、被災地が無機質で画一的な空間になっていた。震災から復興するって、こういうことなのでしょうか

朝日新聞2022年3月25日付夕刊
(太字は引用者)

上述の監督の"違和感"が物語の駆動力でもある。

すみれは『自由奔放でミステリアス』(本作パンフレットより)という『画一的な』存在ではない。
『目に見える爪痕はほぼ消え』たように、別の女性と婚約したすみれの当時の彼氏(杉野遙亮)や、穏やかな生活を送るすみれの母親(鶴田真由)ら、真奈の目からは『画一的』に死を受け入れたように映る人々も、実は個々にすみれを想っている。


かように、本作は執拗なまでに『人間は片面しか見えていない』ということを描いているが、そのことそのものは、冒頭に書いたとおり、物語内世界ではなく、それを見ている「観客」に向けられている

我々観客は「物語」を理解するうえで、登場人物の『片面』を、あたかも『両面』であるかのように『画一的』に捉えている。
というか、『片面』も『両面』も存在せず、あるのは『全面』だけということになっている
そうしないと「物語」に入っていけない。
「実はこういう面のある人だった」という展開の物語は、キャラクターは「全面」しか持たないことが前提だからこそ、「説明可能な(見える)もの」として成立する。

たとえば真奈は、『引っ込み思案で自分をうまく出せない』(本作パンフレットより)。

しかし本作は冒頭から、それを疑っている(あえて「疑っている」と表現している。理由は後述)。
冒頭、真奈は生前のすみれが同棲していた彼氏が(別の女性と婚約したため)引っ越しをするというので、部屋に置かれたままだったすみれの私物の処分を頼まれる。
それを「形見分け」だと言い放った彼に苛立った真奈は、彼に向かって「前から苦手だった」と吐き捨てる(B)。
そこから回想シーンに移り、真奈は強引なサークル勧誘に困惑し、すみれとの初めての二人旅で『真奈は何考えてた?』と問われて、一瞬何かを言いかけたのに『何にも考えてなかった』と答えてしまう(A)。

上記(A)の真奈はまさに『引っ込み思案で自分をうまく出せない』のだが、それから約10年後の現在である(B)は、そうではない(と示唆される)。
それは、不在の店長に代わりに、「真奈ちゃんの好きな曲でいいから」と店のBGMの選曲を頼まれた際に、躊躇した形跡(シーン)もなくお店に相応しい曲が流れているシーンにおいて補完される。

(A)から(B)への約10年間で、学生から社会人になり新人の教育係を担うまでになった真奈が成長したとも言えるが、それは物語として描かれていない。
誰かが真奈に指摘した(と仄めかす)シーンもない。
本作にあるのは、真奈とすみれが最後に飲んだ店からの帰り道に、すみれが『真奈はそういう人』と思っていると仄めかすシーンである。

つまり、最初から真奈の『片面』はそういう人だったのではないか
そして、『引っ込み思案で自分をうまく出せない』という性格は、ただの『もう一方の面』でしかないのではないかと、本作は「疑っている」。
「物語すら両面は見られない」ことを描く本作は、それ故に、『もう片面はこういう人(という設定)』と断定ができない。
だから、本作内の登場人物であっても、「疑う」ことしかできない

従って、本物語内の登場人物である真奈本人は、疑いすら持っていない(『全面』を否定する物語は「疑う」ことすら想定できない)
だから真奈は、自身を『引っ込み思案で自分をうまく出せない』性格だと信じ切っている。

『私たちは、世界の片面しか見えていないと思うんだよね』

その『世界』には、当然「(我思う処の)自分」も含まれている。
つまり、本作において、すみれの言う『見えていない(あるいは見えている)世界』は、視覚を通した「外界」ではなく、自身(内面)を指している。

その物語観は、他の人物に対しても一貫している。
象徴的なのは、真奈の勤めるレストランの店長(光石研)。
彼は日頃、今現在のお店の雰囲気に合うクラシックのCDを選択しているが、若い頃はヘビメタが好きだったという。
「今はどっちが好きか」と真奈に問われた彼は、「自分でもわからない」と困惑の表情を見せる。

真奈自身、すみれを探しに行かなくなった現在の自分の気持ちについて『見つけてあげたい気持ちと、見つかって欲しくない気持ち』と理解しあぐねている。


以上、見てきたように、本作は「人間は、本質的に”絶対に”『世界の片面しか』見ることができない」という絶望感を描いている。

しかし、それがわかっていても、諦められない。
人間とはそういう生き物である。
だから、『もう一方の面』の一片だけでも、と必死に手を伸ばす。
繰り返し言うが、手を伸ばすのは「希望があるから」ではない。
『"絶対”に見ることができない』という「絶望」を全身で引き受けながら、それでもなお「絶望の手」を必死に伸ばす

真奈も手を伸ばす。
すみれの「形見(片見)」のビデオカメラの前で、「もういない」とわかっている絶望を引き受けながら、それでもなお、すみれに語りかける。
絶望しかなくても、それでも……それでも……それでも……
その手は『やがて海へと届く』と信じて。

そしてそれは、中川監督自身の姿でもある。

映画は、真奈が亡くなった親友を思うという形で進んでいく。中川監督自身、学生時代の親友を自殺で失っている。震災の直後だった。
「僕だけがそのまま社会に出ました。独り残された自分と、震災で変わった日本社会の間にはどういう関係があるのか。もう一度振り返る機会じゃないかと思いました」

(朝日新聞)


メモ

映画『やがて海へと届く』
2022年4月6日。@TOHOシネマズ日比谷

本作、上述したように『いないはずのすみれによって「伏線回収による大どんでん返し」展開となる』(あくまで"的"であることに留意)。
故に、「ネタバレ」と称して、様々な感想等がネット上に書き込まれるだろう(だから本稿はあえて、それに抗っている。「主人公」という言葉も一切使っていない)。

しかし、本稿を含め、それらを鵜呑みにしてはいけない。
特に、本稿を含め、「本作の内容を説明する」と吹聴するような文章は要注意である。
何故なら、本作は『人間は、本質的に”絶対に”『世界の片面しか』見ることができない』という絶望感を描いた作品だからだ。
「ネタバレ」しようがしまいが、何を書こうが、それは『片面』の、しかもその中の小さな小さな一片でしかない(だから、個人的にいっぱい書きたいことがある本作だが、あえて一片に絞っている。それでもこの分量になってしまった。まぁ、それは私の文才の無さ故だが)。
「本作の内容が説明できる」と思うこと自体、何もわかっていない証拠である(繰り返すが、自虐でも何でもなく本稿も同類だと承知で書いている)。


物語の構造やセリフ、俳優の演技などなどを含め、個人的には、早くも2022年のベスト1にしたいくらいの衝撃だった(50歳を超えた私が映画館で嗚咽しそうになるなんて……)。

『プロデューサーから「20代の集大成になることをやってほしい」と言われ』(本作パンフレット、監督コメントより)、それをやってのけた中川監督に驚愕である。

そんな中川監督は上述の朝日新聞のインタビューで、本作のあるシーンについて、こう発言している。

新歓コンパを途中で抜け出す人は信用出来ますよね(笑)。自分をよく見せたいというね、目的のある明るさが僕自身もすごく嫌でした。十何年ぶりでコンパに仕返しが出来ました

(朝日新聞)


おまけ

東日本大震災を扱ったNHKドラマ『LIVE! LOVE! SING! 生きて愛して歌うこと』(一色伸幸脚本。2015年3月10日放送。後に、未公開シーン等を追加し劇場公開)で、印象的なシーンがある。

浜辺で漁に行ったまま戻らない夫を探し続ける妻(ともさかりえ)に対し、女子高生(石井杏奈)が『見つかるよ』と励ます。
それを聞いた妻は女子高生を押し倒す。
見つかるって何?見つかるわけねぇべ。見つかった瞬間に終わる。このクソみてぇな景色が本物になる。悪い夢が現実になる。見つかってたまっか!見つけてたまっか!
彼女は砂浜に何度も拳を打ち付けながら嗚咽し、最後にこう言って泣き崩れる。
私はもう……私が何してんのかわがんねぇ!

すみれを探しに行かなくなった現在の自分自身の『見つけてあげたい気持ちと、見つかって欲しくない気持ち』という複雑な心境は、こんな感じだったのかもしれない。
やはり「私たちは、世界の片面すら見えていない」のだ。



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