映画『からかい上手の高木さん』を観て思った取り留めもないこと…(感想に非ず)

映画『からかい上手の高木さん』(今泉力哉監督、2024年。以下、本作)で、西片と高木さんの「関係性」の顛末に安堵して、思わず笑ってしまった。
その安堵は、ある意味においての「ハッピーエンド」に対してではなく、「やっぱり今泉作品だ」ということに対してだ。

とある島の中学校。隣の席になった女の子・高木さんに、何かとからかわれてしまう男の子・西片。
どうにかしてやり返そうと策を練るも、いつも見透かされてしまい失敗……。
それから10年ー。高木さん(永野芽郁)が島に帰ってきた!
「西方、ただいま。」
母校で体育教師として奮闘する西方(高橋文哉)の前に、教育実習生として突如、現れたのだった。
10年ぶりに再会した二人の、止まっていた時間と、
止まっていた「からかい」の日々が、再び動き出すー。

本作パンフレット「Story」

本作公開に関連して2024年6月9日に放送されたテレビ番組『情熱大陸』(TBS系……だったのは本作の製作がTBSだったから)で、今泉監督は『恋愛映画のマイスター』と紹介された。
この"note"でも、「恋愛映画」として観た方々の感想が寄せられている。

確かに本作、恋愛映画である……が、どこか承服しがたい、微妙な違和感がある。
それは、私が50歳を過ぎたオヤジだからかもしれないが、恐らくそれだけではない……と考えていて、ふと、「この映画、実は全く恋愛を描いていないのではないか」と思った。

この微妙な違和感は、本作が「恋って素晴らしい!」という恋愛賛歌でも、或いは「人って素晴らしい」という人間賛歌でもない、というところに由来するのではないか。

実際、中井(鈴木仁)と真野(平祐奈)は、結婚披露パーティーの席上でも出席者を前に喧嘩を始めるし、浜口(前田旺志郎)と北条(志田彩良。今泉組常連!)はくっついたり別れたりを繰り返した挙句、物語上は復縁の兆しをみせない。
中学生の町田(齋藤潤)と大関(白鳥玉季。『永い言い訳』(西川美和監督、2016年)の"灯ちゃん"だ!「大きくなったねぇ」と親戚の叔父さんみたいに目を細めてしまったのだが、そういえば彼女は今泉作品『mellow』(2020年)で、前出の志田演じる中学生を『九九の7の段が言えない中学生』と「からか」っていたのだった)の「恋愛」も保留されている。

おまけに本作は、完全なる「コミュ障」映画だ。
西方と高木さんだけでなく、前出した登場人物たちも常に「1対1」の関係性しか持たない。
極めつけは当然ながら西方で、気がついた人も多いかとは思うが、彼は、ほとんどの場合において相手と「正対」しない。

後述するが、それは今泉作品の特徴でもある「横並び」と関係もあるが、最終盤の高木さんとの「横並び」のシーンで明らかになるように、彼自身「人と関係を持つ」ということの意味合いそのものが(経験上において)理解できないということもある(だから彼は、「コミュ障」どころではなく「コミュニケーション不全」と言っていい)。

だから彼は、高木さんとだけでなくほとんどの場合において、正対を避けて斜めになっている(そのため、大関に相談された西方は彼女と正対しているはずだが、今泉監督はそれをワンショットではなく、所謂「切り返し」ーしかも、かなりしつこいーで撮っている)。

それは高木さんも同じで、彼女が西方と正対するのは意味(というより、意図)を持ったとき(同窓会帰りの「からかい」のシーン、生徒に請われて西方をデッサンするシーン、ブーケを拾うためにプールに入った西方を追ったシーン)で、それ以外では正対しないように意識しているように見受けられる(それが演出意図なのは、プールのシーンで正対したとき、感極まった永野が泣きだしたのをNGにしたことからも明白だ)。

彼女が西方と違うのは、(西方よりは)コミュニケーション不全ではないことで、だから「切り返し」で大関と正対した西方とは対称的に、ちゃんと町田と正対する。

ちなみに、以前の拙稿にも書いたが、今泉作品では「横並び」が多用される(つまり、本作に限らず今泉作品では正対するシーンが少ない)。
前出の志田が出演している『パンとバスと2度目のハツコイ』(2018年)も3人が卓上テーブルを囲まず横並びで座っているし、志田主演の『かそけきサンカヨウ』(2021年)でも、中華料理店の円卓なのにみんなが横並びになっている。さらに言えば、『猫は逃げた』(2022年、脚本・城定秀夫)でも、3人が狭いソファーにギューギューで横並びで座っている(もう一人は別の椅子に座っているがやっぱり横並び)。

高木さんが町田と正対しているのを観て気がついたのだが、今泉監督が明らかに正対している二人をワンショットで撮るのは、もしかしたら、そこに二人の関係性がない(或いは発展しない)ときなのではないか。
たとえば、冒頭で書いた『情熱大陸』で『10分ワンカット』と紹介された『街の上で』(2021年)でのシーンは、主人公の青(若葉竜也)と城定イハ(中田青渚。そういえば彼女は、WOWOWドラマ『杉咲花の撮休』の第二話「ちいさな午後」(今泉監督)で「杉咲花」とソファーで横並びになっていた)が正対しているが、それは二人が行きずりであるからではないか。

本作が恋愛賛歌でも人間賛歌でもないというのは、『情熱大陸』の中の犬童一心監督による『(今泉作品においては)登場人物が成長や成功のために行動するわけじゃない』という指摘に現れている。
CSの日本映画専門チャンネルで放送された番組『いま、映画作家たちは2020 監督 今泉力哉にまつわるいくつかのこと』においても、若葉竜也が『一歩も、誰も、成長しない』と語っているし、映画評論家/ライターの森直人氏も、こう指摘している。

(映画の)魅力的なテンプレとして「通過儀礼的な物語の構造」が鉄板としてあるが、今泉監督は映画の1.5~2時間の中で主人公が成長する構造を嫌う。「そんなに簡単に人間が成長してたまるか」

これが冒頭に書いた最終盤、教室での西方と高木さんの「横並び」のシーンに繋がる。
意外なことに、ここまで書いたことを覆すかのごとく、二人は正対する
そして、二人の「関係性」の顛末は……
「恋愛映画」として観るなら「ハッピーエンド」に思えるが、果たしてそれで良いのか?
二人が出した結論で、二人が、或いはどちらか一方が、『成長』しただろうか?
恋愛映画の王道は、「恋愛(失恋でも同じ)は人を成長させる」という「恋愛賛歌」ではないか。
だとしたら本作は、それを(割愛に見せかけながら意図的に)完全に無視して、一気に「ハッピーエンド」に到達させたことにならないか?
そう考えた私はだから、「実は全く恋愛を描いていないのではないか」と思ったのだった。

『一歩も、誰も、成長しない』という相変わらずの今泉監督に安堵し、ほとんどの観客に「ハッピーエンドの純愛物語」と錯覚(というのは言い過ぎだが)させてしまう。その今泉監督のアッパレなる手腕に、私は思わず笑ってしまったのである。

メモ

映画『からかい上手の高木さん』
2024年6月12日。@新宿ピカデリー

本文で、高木さんが西方と正対するのは『意図がある』からだと書いた。
その「意図」とはもちろん「物語、或いは演出の都合上」という意味だが、物語はそれを巧妙(本当に巧い!)に「高木さんの本心」にすり替えてしまう。
それが物語全体の説得力となり、(後述する町田を含めて)『誰も』内面の葛藤を持たない(セリフに「裏」を感じさせない)のに、観客は「リアルな人間同士の恋愛物語」として感動する。

『一歩も、誰も、成長しない』と書いたが、実は一人だけ成長した人物がいる。それが町田だ(とはいえ彼もセリフ以上の内面を持たない)。
意図は明確で、田辺先生(江口洋介)が言う『人は独りでは生きられない』ということを伝えるためだ。たとえ「コミュ障」であっても、他者とのコミュニケーションをったり諦めたりしてはいけない。中井や浜口だって一生懸命生きているのだ。

ところで、大関が西方に相談しているとき、町田は高木さんといたはずだ(港で初めて町田に会った高木さんは彼に「明日空いてる?」と聞き、大関は西方に「昨日二人を見た」と言ったことからも明らかだ)。
なのに、二人の環境はあまりに違い過ぎる。
町田は晴れた空と穏やかな海を描く一方、大関の背後の校舎の窓の外は曇っていて強い風が木々を大きく揺らしている。
果たしてこれは撮影上の理由なのか、はたまた演出なのか。
私個人は、町田と大関の心象(の差異)を表しているのだと思っている。

揃いも揃って「コミュ障」の登場人物たちが『一歩も、誰も、成長しない』物語に何故、感動してしまうのか。

理由の一つが本作が「ファンタジーの世界」だからではないか。
間違ってはいけないのは、パンフレットで今泉監督が語っているとおり、本作は「ファンタジーの物語」ではない点だ。

でも実際に現実の世界にも(西方や高木さんのような)純粋でピュアな人は存在しますし、ファンタジーだとは思わなかった。

物語ではなく、登場人物たちがいる世界そのものが「ファンタジー」なのだ。
それは、山本崇一朗氏の原作では明確に「(原作者の出身地である)小豆島」が舞台であり、しかも本作も原作に倣って全シーン小豆島で撮影した(ことを明かしている)にも拘わらず、本文で紹介したとおりパンフレットの「Story」は『とある島』となっていることからも明らかだ。

つまり、この『とある島』は、ある意味「ペンギン村」(『Dr.スランプ』(鳥山明))や「友引町」(『うる星やつら』(高橋留美子))の世界と同じだ。
だから中学生のときから付き合っていた中井と真野は何の疑いもなく結婚する(しかも、パーティーの間も、そこでプロポーズした後も、相変わらず互いを名字(旧姓)で呼び合っている)し、何度振られても浜口は北条以外の女性を好きになることが(でき)ない。
外界とは無縁の「ファンタジーの世界」だからこそ、犬童監督が指摘するような『成長や成功のために行動するわけじゃない』人物たちが生きられる(というか、現実とは違う「世界」は、それを全く要請しない)。
だから『一歩も、誰も、成長しない』ことが許されるのだし、それが許される世界は、我々観客にとっても居心地がいいのである。



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