「寺田ヒロオ」がいた頃といない今:映画『トキワ荘の青春』、『ツナガレラジオ』

2021年2月12日。
有給を取って4連休にした私は、その日が公開初日の映画『トキワ荘の青春 デジタルリマスター版』(市川準監督。オリジナル版は1996年公開)を観にテアトル新宿に出掛けた。
折角なのでもう一本くらい映画が無いか調べたら、近くの新宿ピカデリーで『ツナガレラジオ~僕らの雨降Days~』(川野浩司監督。2021年)という映画が見つかったので、何の予備知識もないまま劇場に向かった。
(ちなみに、『ツナガレラジオ』の上映終了が10:30。『トキワ荘の青春』の上映開始が10:35という、強行スケジュール……)

両映画は、若者たちの「夢・希望」や「悩み・迷い・挫折」みたいなものを描いている(何故か「恋」がないのも同じ)、所謂「男子の群像青春劇」であるのだが……
60年以上の隔たり(『トキワ荘の青春』の舞台は1955(昭和30)年頃)が、それらを全く正反対に反転してしまったように感じた。

なお、予め断っておくが、本稿は映画の紹介でも批評でもない。
両映画を比較するが、それは良し悪しや優劣を意味しない。
どちらの映画も等しく面白く、そして価値あるものである。


若者たちの共同生活

両映画は、「漫画」「インターネットラジオ」という共通点をもった若者たちが集うが、その共同生活は対照的に描かれている。

『トキワ荘の青春』は共同炊事場・共同トイレで部屋に鍵もないという時代もあるのだが、ほとんどプライベート無視で互いの部屋を積極的に行き来し、アイデアを出し合い、議論をし、時に仕事を手伝い、コラボ漫画も描く。

対して『ツナガレラジオ』の共同生活では、2人1部屋でそれぞれの部屋の様子は紹介されるが、部屋を行き来した交流は描かれない。
彼らは、自身の役割(DJやディレクターなど)から逸脱して仲間の役割に介入することもないかわりに、序列もなく、立場による軋轢もない。
何人かの仲間が離れて放送できない危機に瀕したときも、誰かがその離れた仲間の役割を肩代わりしようとすることはなく、自分の役割を粛々とこなし、ひたすら仲間が戻ってくるのを待つ。

「俺はあいつが戻ってくるのを信じる」的な友情映画だから当然なのだが、少し穿った見方をすると……

彼らは発起人の募集に自ら「これができる(或いは、やりたい)」と手を挙げたのであり、その自分の役割を全うすることだけが必要と考えている。
だから、他人の役割に介入する発想はない。
つまり、他の事はできない(実際に介入すると失敗する可能性が高いし、そうなった場合、自身の立場をも危うくなる)、と考えている。
それ以前に、自分が他人に介入された場合に受けるダメージを恐れている。

これはあくまで私の想像であり、そういうシーンがあるわけではないが、そう考えると、「現実としてリアル」な若者像を描いているのかもしれない。


「目的」と「手段」の逆転

インターネットラジオを開設した若者たちは、間もなく行き詰ってしまう、という展開で、映画はその解消のプロセスが描かれている。
行き詰まった理由は、イッセー尾形演じる豆腐屋の主人が言う『誰に何を届けたいかが分かっていない』ということである。

ここに『トキワ荘の青春』から『ツナガレラジオ』までの60年という時間の隔たりによる、「目的と手段」の反転ぶりが窺える。

『トキワ荘の青春』は「戦後の復興期を生きる子どもたちに、娯楽や夢だけでなく道徳をも与える」という「目的」があり、その「手段」が「漫画」なのである。

対して、『ツナガレラジオ』では、「インターネットラジオを放送する」というのが「目的」になってしまっている。
しかし、本来、「インターネットラジオ」は「手段」であり、「目的」は、豆腐屋の主人が指摘するように『誰かに何かを届けたい』であり、その「誰か」と「何か」は、トキワ荘の漫画家たちのように、明確に想定されていなければならないはずである。
その想定がされていないのだから、当然、行き詰まる。

何故、そうなってしまったのか?

60年余の時間の中で、科学や技術は「手段」を豊富に生み出してきた。
それは、『トキワ荘』が象徴するように、明確な「目的」があって、それを達成するための「手段(道具)」を作り出す必要があったからだ。
そうして、次々と「目的」を達成した結果、「目的」を解決し尽くしたのではないか。
そして、その過程で生み出された大量の「手段」が残った。

すると今度は、その残された「手段」を使うことが「目的」となる逆転現象が起こった。

『ツナガレラジオ』ではインターネットラジオを開設した時点で「目的」が達成されてしまっている。
目的が達成された以上、継続する意味を見出せない。だから、行き詰まる。

それは現代の我々も同じで、スマホやSNS、この「note」など「道具」を使うことが目的化され、「続ければ何か得られる」などと誤魔化されてしまう。
本来は「何かが得られる」ではなく「具体的なものを得る」のが目的であり、それを得るために道具が使われるはずなのだ。

無理矢理道具だけ与えて「何かやらなければならない!」とけしかけたところで、「何か」を具現化できない(或いは、する必要がない)人々にとっては、唯々「何をしたらいいかわからない」という悩み(もっと言うと「強迫観念」)になってしまうだけであり、21世紀の今、それが現実に起きている。

映画『ツナガレラジオ』は、そんな悩みを抱えた人たちに、「本来の目的は別にあるよ」と教えてくれる。


シンボルとしての「寺田ヒロオ」

映画『トキワ荘の青春』の主人公・寺田ヒロオ氏は「トキワ荘」の漫画家たちの兄貴的存在であり、彼らの相談に乗り、求められればアドバイスもし、時にはお金を貸すといった、良きリーダーだった(彼と映画については拙稿を参照)。

そして、誰よりも「戦後の復興期を生きる子どもたちに、娯楽や夢だけでなく道徳をも与える」という目的意識を強く持っていた。
だから寺田氏は、高度成長の時代にあってマンガも大量生産の時代になり、より過激に刺激的になっていくマンガ、「劇画」が台頭し子ども向けではないマンガが求められる時代を頑なに拒否した。
その信念を貫いた結果、マンガ発表の場を失った。

彼が表舞台から去ったあと、時代から良きリーダーが次々消えていき、人々は対等になった代わりに自分の役割を持たされ、それ以外のことへの介入が難しくなり、次第に介入できるという発想さえ失った。

そして、彼の「表現したいのに、表現する場所を与えられない」という悩みは、「表現する場所を(半ば強制的に)与えられているのに、表現することがない」という、正反対の悩みに変わった。

『ツナガレラジオ』は、「寺田ヒロオ」を失った時代を描いた映画ではなかったかと、『トキワ荘の青春』を観ながら考えていた。

(21/02/16 追記)
どうでもいい余談だが、『トキワ荘の青春』で、藤子不二雄らがアイデアを練っている時に「かぐや姫の実家が家具屋ってのはどう?」みたいなことを言って失笑されるシーンがあるのだが、今回、別の意味で笑ってしまった。
まさか約60年後、現実に「家具屋姫」が現れるとは(苦笑)。


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