映画『彼方のうた』~東京国際映画祭2023 ジャパン・プレミア先行上映~

映画『彼方のうた』(杉田協士監督、2024年1月公開予定。以下、本作)を説明することはできない。

助けを求める見知らぬ相手に手を差し伸べようとする女性を描いたヒューマンドラマ。子供のころに声をかけた相手に、大人になった後で再会した女性と、それによって新たに築かれる人間関係を描く。監督などを手掛けるのは『春原さんのうた』などの杉田協士。『スウィートビターキャンディ』などの小川あんのほか、『火垂』などの中村優子、『心に吹く風』などの眞島秀和らがキャストに名を連ねる。

ベンチに座っている雪子(中村優子)のことが気になった書店員の春(小川あん)は、道を聞くふりをして彼女に声をかける。そうした行動の一方で、春は剛(眞島秀和)を尾行して彼の様子を確認することを繰り返していた。実は春は幼いころ、街で見かけた雪子と剛に声をかけた経験があったのだった。ある日、春の尾行に気づいていた剛が、彼女の勤め先の書店に姿を見せる。

公式にはこの程度しか発表されていないようだが、(驚くべきことに!)作品がこれ以上の情報を提供したり補完したりすることは、一切ない。
それどころか本作は、(驚くべきことに!)「映画・物語において映っているはず(映すべき)モノ」が、ほぼ全くと言っていいほど映っていない。
なのに("だから"でもある)、本作は、(驚くべきことに!)一瞬たりとも目が離せない魅力的な作品たり得ているのだ。

その事に気がついたのは、何も情報が与えられない中、春が通っているアート系のカルチャー教室らしき(と書くしかない)で、「自分の思い出をワンカットのビデオ作品に撮る(思い出を演じる被写体は他の生徒)」という実習で、春が撮るシーンだった。
カメラはビデオを構える春を捉え、スクリーン外で母を見送る娘(恐らく春自身)、というシーンが演じられている(はず)。続くカットで、春が撮ったビデオを生徒みんなで見ているシーンになるのだが、これが見事に先のシーンの説明や補完になっていないのである。
それなのにそのシーンで、(驚くべきことに!)私の頭の中で、薄くふんわり("ぼんやり"ではない)とした明かりのようなものが点灯したのだ。

以降、物語は演じている(こっちがメイン)の人を撮影する人や、映っていないのに演技をする人(撮影している側がメイン)など、「映画・物語において映すべきモノ」の外側ばかりを捉えるのだが、その度に私の頭の中に薄くふんわりした明かりのようなものが点灯し続けた。

その明かりが一体何を意味するのかわからないのだが、それが最大に光った(実際、私はそのシーンで前のめりになった)のは、紙袋を下げた春が歩道で佇む(ではなく"立ち尽くす"といった方が適切かも)シーンだ(もちろんこれも、その前後のシーンの説明や前振りになっていない。春は一歩も動かない、動く気配すら見せない、ということは彼女(=物語)自身、このシーンで"次につなげようとする意思"を持っていない)。

ラストシーンにおいて、春に何か重大な事が起こる(というか、春自身が起こす)ことが仄めかされるのだが、それが何なのかも、それでどうなったのかも全く描かれない。

「駄作」であれば、単に風呂敷を広げるだけ広げて回収しなかった(できなかった)ということになるだろうが、本作は「良作」なのである。

その理由は、上映後のティーチインにおいて、杉田監督自身の口から明かされる。

その前に、一つだけ補足しておく。
物語は、杉田監督の前作『春原さんのうた』(2022年)の舞台となったカフェ「キノコヤ」から始まる。そこでは前作で主人公だった沙知(荒木知佳)が、前作と同じように働いている。
ということで、本作はある意味において「前作の続編或いは姉妹作」とも取れる。

しかし、ティーチインにおいて、杉田監督は観客からの、この指摘を明確に否定した。
『自分は、登場人物が"その物語の中だけ"で生きているのではなく、その前も生きていたし、物語が終わった後も生き続けていると考えて作品を作っている。物語は、生きている登場人物たちの"ある限られた日"を切り取っているに過ぎない。だからもし、(今この映画館にいる)お客さんの中で誰かを撮らせてもらえるなら、その人を数日間撮って、またそこから近くの人へと移っていく(という撮り方になる)だろう』
『だから、前作の登場人物たちだって、どこかで生きていることは私の中では当たり前のことで、その人たちが今回たまたま本作の登場人物の生きているところにいた』

さらに別の観客からの『背中から撮ったシーンが多い』との指摘に対して監督は、『表裏・前後という意識がない。たとえばこの舞台は"観客から見て前"という方向に我々は向いていることになっているが、自分にその意識はない。表裏・前後ではなく、"どこにカメラを置けば観客に伝わるか"しか考えていない』と答えた。

この2つの発言は、本作(及び杉田監督作品全般)についての明快な説明になっている。

つまり、本作として大事なのは、カメラの前で演じている人ではなく「シナリオを考えて自らそれを撮っている人」の人生であり、或いは、ドア越しでカメラに映っていない(声だけの出演)とはいえ「急に演技しろと言われた、ただの父親」の人生なのである。

先に挙げたシーンで私が前のめりになったのは、春が気になったからではない。そこに行き交う人々に目を奪われたからだ。
歩く人、キャリーケースを引きずって小走りで通り抜ける人、自動車、自転車、さらには、横断歩道じゃないところを渡ってきた中年女性までもが映りこんでいるのである。
これはつまり、そのシーンで大事だったのは春ではなく、それらの「一般の人々の人生」だったということを示している。

つまり、我々が『彼方のうた』という映画から「一瞬たりとも目が離せない」のは、スクリーンに映った人越しに「別の人の人生」という『(見えない)彼方』を見ようとしているからで、だからそれは、ポータブルカセットプレイヤーで「どこかの川で録音された音」を聞きながら、その川がある(だろう)『彼方』の音を聴こうとしている春に通じているのである。

メモ

映画『彼方のうた』
2023年10月24日。@TOHOシネマズ日比谷 スクリーン12(TIFF 2023 ジャパン・プレミア先行上映。ティーチインあり)

とはいえ、本作のラストシーンは春が「春原さん」ではないかと想起させるように仕向けているんじゃないかなぁ、と穿ってみたりはする。

ティーチインでもうひとつ印象的だったのは、スクリーンのサイズがアナログテレビサイズ(4:3)である理由を聞かれた杉田監督の答えだった。
『横長だと余計な情報が映ってしまう。情報を限定するサイズにしました』

本作、2024年1月5日にポレポレ東中野、渋谷シネクイント、池袋シネマロサにて公開、順次全国公開される予定。



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