SNS時代の幕開け~舞台『イロアセル』

2021年11月に新国立劇場の「フルオーディション企画」の第4弾として上演された舞台『イロアセル』(作演出・倉持裕。以下、本作)は、SNSの世界をわかりやすくカリカチュアした物語だが、少し牧歌的に見える。
何故なら、本作の初演(演出・鵜山仁)は10年前の2011年10月だからであり、本作は2021年現在に至るSNS社会を予感させる内容となっている。


2011年

2011年は、SNSにとって象徴的な年でもある。
東京経済大学教授・佐々木裕一氏の著書『ソーシャルメディア四半世紀』(日本経済新聞出版社、2018年)によると、2011年3月時点で955万件だったスマートフォンの契約数が、1年後の2012年3月には約2.5倍の2522万件に激増している。激増の一因は、2011年3月に起こった東日本大震災でSNSの有用性が大きく認知されたことにある。

また、現在多くの人が日常的に使用しているスマホ用「LINE」のサービスが始まったのが、2011年6月。

そして、その影響をモロに受けたのが「mixi」である。

「2010年のユーザーサイトの雄」mixiから多くの利用者が離れていったのは2012年後半からである。2011年9月に1516万あった(ミクシィが2011年に発表した)MAU(引用者註:Manthly Active Users=インストールしたアプリを1ヵ月に1度以上起動した率)は、2012年12月には1298万まで減少(ミクシィ,2013)。(略)
mixiはスマートフォンで利用が促進されたSNSカテゴリであるにもかかわらず、スマートフォンを利用し始めた者が利用を始めるものではなくなっていたのである。

(『ソーシャルメディア四半世紀』)

「mixi」は、ユーザー同士の「コミュニティ」を目的としており、当初は招待制であったことからもわかるように、コミュニティに参加するユーザーの素姓はある程度共有されていた。
つまり発言についても、発信者が特定できた。
それが、2011年頃を境に敬遠され始め、「匿名」で発言できるSNSが爆発的に普及していくのである。


本作について

以上の背景を基に、本作を見る。

舞台は架空の国に属する、架空の小さな島。
この島民は、自身の言葉に「特定の色」が付いている。人々はハンディタイプの検知器を携帯し、島民がどこにいても「誰が何を言ったのか・書いたのか」が全て筒抜け状態になっている。
大事なのは、「特有」ではなく「島民特有」であることだ。
島民は「本土」と呼ばれる島の外側に行っても、色を発散する。「本土」の人から奇異の目で見られるため、「本土」では島民はほとんど言葉を発しない。
逆に「本土」の人が島に来ても、言葉に色が付くことはない。

「誰が何を言ったのか」が筒抜けである島民同士は、自身の発言を気をつけることになる。「陰口」「悪口」「噂話」などは、もってのほか。書いた文字にも色が付くため、想いを書き留めることもできない。

そんな生活が日常である島に、「本土」から囚人の男と彼を見張る監守がやってくる。彼らは上述のとおり、言葉に色が付くことはない。
しかし、不思議なことに、島民たちも彼らの前では言葉に色が付かなくなる。
これを発見した島民たちは、「面会」と称して彼らに会いに行き、普段は言えないことが言える快楽を覚える。

囚人は、島民たちの話を、「発言者を伏せて」書き記し、「面会」に来た誰か一人に「個人的な手紙」と称して渡す。一人にしか渡していないはずの「個人的な手紙」が何故か、島民たち全ての手に渡っている…
結果、島民同士が「誰が発言したのか」「誰の事を言っているのか」で疑心暗鬼になり、やがて争いに発展、コミュニティが崩壊していく…


2010年代のSNS社会への布石

以上が、本作が「SNSの世界をわかりやすくカリカチュアした物語」であることの説明である。
多くは語らないが、冒頭に書いたように、まだSNS創生期時代の物語であり、2021年の今観ると「牧歌的」であるように思う。

たとえば、現在「インフルエンサー」にスポンサーが付いていることは周知の事実で、人々は「それ込み」或いは「裏読み」しながら情報を得ている。

しかしながら、2021年の再演によって、2011年が現在への布石になっていたことも明らかになった。

(人気のあるスポーツ)カンチェラのチャンピョン・ライ(福原稚菜)が言う、『普段は言えないことが言える場所』というのは現在の「裏垢」に通じる。
さらに、女性町長・ネグロ(山下容莉枝)が、『私の心の中には嫉妬・憎悪などが渦巻いている。私と同じような心を島民が持っているのか心配』と吐露するが、これはつまり、ライが示唆する「裏垢」の存在について誰もが疑心暗鬼になっている現在に通じる(「この人、本当は『裏垢』で私の悪口言っているかも」)。

ナラという女性の存在も興味深い。
具体的には明かされないが、過去の経歴からこの島の唯一の嫌われ者扱いされている彼女に対しては、島民は悪態をついていいことになっている。
つまり、「悪者認定」だ。
一度「炎上させていい」と認定された者を、直接関係ない事や虚偽であっても言いがかりをつけて誹謗中傷して構わない。
日本でも、2020年頃からネット上の誹謗中傷への対策が本格的に議論され始めてきたが、誰彼構わず言えない状況になった時、「悪者認定」された者への扱いをナラは示唆しているのかもしれない。

さらに興味深いのは、ナラを演じた東風万智子(こち・まちこ)だ。
本作、冒頭に書いた通り「フルオーディション」である。
彼女は、まだSNSどころかインターネットが広く普及する前の1999年、「真中瞳」という名前で当時の人気テレビ番組『進ぬ!電波少年』で、「3カ月間、見知らぬ男と核シェルターで生活」したり、「香港人のタレント・チューヤンとヒッチハイクで世界一周」していた(今では絶対に放送できない)。
私は、あまり見ていなかったのだが、Wikipediaによると、前者の企画で『別れ際には男性に「ねえ、キスしようか」と言って舌を絡ませる大胆なキスシーンを演じてお茶の間の度肝を抜き』、後者で『旅費が尽きるとフランス・パリでモデル料がたった3000円にも関わらずヌードモデルとして働いたり、病気になったチューヤンの治療費を稼ぐためにタイでホステスにも果敢に挑戦』と、今なら賞賛/批判ひっくるめて炎上必至だ。
本作、その彼女をナラ役で抜擢って素晴らし過ぎる!


演劇に見る「共同体の崩壊」と「分断」

個人的な観劇経験から言うと、本作と同じように「島に異物が入り込んでくる」というのは、野田秀樹の『赤鬼』(1996年初演)を思い出すが、『赤鬼』では島に入り込んできた「異物」を排除するという、旧来の日本の「共同体」が描かれていた。
しかし本作では、積極的に「異物」にかかわっていくことにより、「共同体」の息苦しさが露呈し、結果、それが崩壊する。
そして、2021年に初演された岩松了の『いのち知らず』では、共同体が崩壊して個人個人が依って立つ場所を選択せざるを得ない状況に置かれている。そこでは、自分が依拠する場所を死守するために、別の場所にいる他者を攻撃し、そのことにより自分の依拠する場所を強固にせざるを得ない状況が結果的に「分断」を招く様が描かれる。

そういう意味でも、本作が2011年に書かれたというのは、意味深いことである。


ラストシーン

本作の「共同体」が崩壊した結果、島民たちは「珍しい島の人」ではなくなってしまう。

ナラの不正が暴かれた後の試合。
チャンピョンに返り咲いたアズル(永田凜)が2年ぶりに表彰台に上る。
テレビ観戦していた監守、そしてテレビの向こうにいるだろう「本土」の観客は、2年前に魅了された、彼女の『青の九十九番。冬の青空に一番近い色』を待っている。

そこで幕が下りる。

その1秒後に何が起こるのか?

2021年のオリンピックを思い出す。


メモ

舞台『イロアセル』
2021年11月12日。@新国立劇場 小劇場

ほんとは、「フルオーディション」にも触れたかったが、3300字で力尽きる…


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