映画『空気人形』

2022年6月、韓国の女優ペ・ドゥナの過去作を2本、別々の映画館で観た。
1本目は「新宿東口映画祭」として新宿武蔵野館で上映された『リンダリンダリンダ』(山下敦弘監督、2005年)で、2本目が是枝裕和監督の最新作『ベイビー・ブローカー』関連企画として渋谷のWHITEシネクイントで上映された『空気人形』(是枝監督、2009年。以下、本作)(彼女は『ベイビー~』にも出演している)。

本作は冴えない中年男・秀雄(板尾創路)が購入して「のぞみ」と名付けられた「性欲処理用空気人形」(現在では「ラブ・ドール」と呼ばれるが、作中でその名称は使われない)が「心」を持ってしまうという、ファンタジー色の強い作品である。

「心」を持ったのぞみ(ペ・ドゥナ)が、21世紀を迎えた「世界」を興味深々に体験し、新しい事に触れる喜びを素直に表現する。
特に前半、メイド服を着て街を体感する喜びが、ペ・ドゥナの愛らしい表情と相まって、「21世紀は祝福されている」といったファンタジー感に観客は幸せな気持ちになる。
しかし、是枝監督が本作を完全な幸福感で満たさず、単なるファンタジーに帰結させない意図を持っているのは、彼女が拙い日本語で言う『持ってはいけない「心」を持ってしまいました』のナレーションからも明らかである。

その是枝監督の意図は、レンタルビデオ店でアルバイトを始めたのぞみが、店員の純一(ARATA、現・井浦新)に自身が「空気人形」だと知られ、知っていながらもやさしく接してくれる彼に「恋」することを発端に発動する。

前半では、のぞみが知り合った近所の人たちは、幸せとは言えないがそれなりに普通の生活を送っている「どこにでもいる都市生活者」として描かれる。
しかし、是枝監督の意図が発動する後半、21世紀は祝福なんかされていないし、それどころか、「人々は皆孤独で内なる狂気を抱えている」ことが露呈していく。
それは、(今観ると)まるでSNS時代の我々を予見しているようにも思える。

人々は各々孤独の中で苦しんでいる。
のぞみには優秀な人間のように吹聴していた秀雄は、仕事場では「使えない奴」として扱われている。
ビデオ屋の店長(岩松了)はお店では映画好きのいい人だが、一人で一軒家に住み毎日卵かけご飯ばかり食べている。
電話で誰かを励ましている風だった受付嬢(余貴美子)は、実は自分の留守番電話に向かって話していたのであり、その録音を家で聞きながら自分を励ましている。
スーパーでパンなどを買い漁っていた若い女性(星野真理)は実は過食症で、食材の袋などが散乱した「汚部屋」で、食べては吐くを繰り返している。
内気な青年(柄本佑)は、メイドカフェでも独りっきりで、部屋でフィギュアのスカートの中をビデオカメラで撮影し、その映像を見ながら自慰に耽る。

それは、まるでリアルや”表”のアカウントではそれなり普通の生活者を装いながら、家では孤独で、芸能人や事件のニュースに口汚くコメントし、”裏”アカウントで周囲の人々を罵倒する、2020年代の我々を見ているかのようだ。
2020年代の我々は「心」を持っているのだろうか?
我々は「心」を持っているが故に、孤独や嫉妬を感じてしまうのではないか?
「心」って必要なのだろうか?


是枝監督は一貫して「家族って何?」ということを描いているのだなぁと思ったのは、本作でのぞみが自分を造った工房を訪れ、人形師(オダギリジョー)に「生んでくれてありがとう」と告げるシーンを観たからだ。
「空気人形とその製作者」という本作はもちろん、『海街diary』(2015年)、『海よりもまだ深く』(2016年)、『万引き家族』(2018年)でも「一般的な"普通"の家族」は描かれていないが、「これだって家族と言えるのではないか?」という問いかけをしているように思える(新作『ベイビー・ブローカー』も「ベイビー・ボックス」(赤ちゃんポスト)に預けられた赤ちゃんを盗み出して、その子を「家族」として迎え入れたい人たちに売るという、やっぱり「家族って何?」という作品)。


以上見てきたように、本作は前半の祝福感から、のぞみが「恋」を得ることにより、絶望感へと変化を遂げる。
そして、衝撃的な結末を迎える(「心」を持った空気人形と「心」を失った人間の立場が入れ替わっている、純一とのぞみの添い寝のシーンには驚いた)。

本作の原作は、業田良家著『ゴーダ哲学堂 空気人形』(小学館)という20ページの短編マンガである。
その業田が、本作の衝撃的な結末に反対したという。
それに対し、是枝監督が業田に意図を説明したメールが、本作メイキング映画『「空気人形」ができるまで』(2009年)で紹介されている。

どうしてもこの(衝撃的な)シーンを描きたいと思った大きな理由のひとつは、人間が(この映画の中の人間たちだけでなく)傷つくことを恐れて人と関わらなくなっている変化を身に染みて感じているからだと思います。
人が他者との”間”を必要としなくなっている。つまり人間でなくなっている。
それが”現代”の特徴だとして、そのことを人間ではない人形が気付き、幸せだと感じ、他者に関わろうとする。他者にもその幸せを実感させたいと思う。その行為によって観る者は自らが人形化していることに気付くのだと思います。そこに感動する。ただし(略)人が人と関わろうとする。その行為の動機がたとえ愛だったとしても、それはある種の危険性を結果的にははらむのだということをきれいごとでなく描いてみたい。(略)
それが今回の僕なりのチャレンジなのだと思っています。

『人間が傷つくことを恐れて人と関わらなくなっている変化』
『人が他者との”間”を必要としなくなっている』
コロナ禍を経た2022年、SNSはもちろん、リモートによるコミュニケーションも当たり前になった。
傷つくことを恐れ、些細なことで「ブロック」してしまう。傷つけることを恐れ、無難な言葉ばかりを使うようになる。「人の体温」は鬱陶しいけれど、スマホやPCを通して誰かと繋がっていたい、孤独は嫌だ……
そんな都合のいい「人間関係」ってあるだろうか?
「人間関係」って、『ある種の危険性』を引き受けることではないのか?

本作はただのファンタジー映画ではない。
衝撃的な結末は、現実の我々が「心」を持たない「空気人形」になっていくことを仄めかしている。


メモ

映画『空気人形』
2022年6月18日。@渋谷・WHITEシネクイント

板尾創路という人は不思議な存在である。
本作でも、「空気人形」と疑似会話しセックスもする男の役なのに、全く気持ち悪くも違和感もない。
映画『おいしい家族』(ふくだももこ監督、2019年)でも、突如、純粋に「お母さんになる」と思い立ち、亡くなった妻の服を着て生活を始める校長先生役を普通に演じている。
朝、校門に立つ女装の校長先生に当たり前の光景として挨拶する生徒たちが、ギャグでも笑いでもなく「日常生活」として成立し、それに違和感を持つ娘(松本穂香)の方が、逆に違和感あるように見えるというのは、本当に稀有なことで、彼だからこそ成立するのだと思う。
「怪優」による「怪演」というのは、「日常から逸脱し過ぎる人物を分かりやすく大袈裟に演じる」ことではなく、本来は、「非日常が日常として違和感なく成立するように演じる」ことなのではないだろうか?



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