生と死と「時間」~映画『川っぺりムコリッタ』~

そういえば「お彼岸」だ。
恥ずかしながら、そう気づいたのは、映画『川っぺりムコリッタ』(荻上直子監督、2022年。以下、本作)を観た日の床の中だった。

主人公の山田(松山ケンイチ)を始め、島田(ムロツヨシ)、南(満島ひかり)、溝口(吉岡秀隆)ら住人たちが各々の迷いや煩悩を抱いて日々を暮している、川っぺりにある「ハイツムコリッタ」は、きっと「彼岸」なのだ。
仏教に詳しくないのでWikipediaの力を借りると、「彼岸」のいう「川」は「三途の川」とは区別され、『悟りに至るために越えるべき迷いや煩悩』を表すそうだ。だから、島田が突如現れた巨大なイカに対して「俺も連れてってくれ」と懇願する先は「天国(或いは地獄)」ではなく、「涅槃ねはん」なのだろうと思う。

一方、川を「三途の川」と見立てると、山田は「あの世」に旅立った父親を迎えに行くために電車に乗って、両岸をつなぐ(鉄)橋を渡るとも取れる。
その山田自身は「三途の川」のたもとにある工場で日々、イカの塩辛を作るためにイカをさばき続ける。
その様子に「賽の河原」の積石塚を想起した。
またもWikipediaに頼るが、「賽の河原」では罪を犯した子どもが親の供養のために河原に落ちている石を積んで石塚を作るのだという。
山田は親より先に死んだわけではない(仏教では親より先に死ぬことを親不孝とする)が、詐欺という罪を償いシャバ(娑婆)に出た後、更生の機会を与えてくれたイカの塩辛工場での仕事は、積石塚作りに似ている気がする。

日常的な言葉としての「賽の河原」は、石塚が完成しそうになると鬼がそれを崩してしまうことから、「報われない努力」「徒労」という意味で使われる。
山田もイカをさばきながら「こんなことに意味があるのか」と呟くが、工場(本作)が地獄ではないのは、そこにいるのが、石塚を崩しにくる鬼ではなく、「意味がある」と「徒労」を強く否定してくれる社長(緒形直人)だからだ。
しかし社長は安易に否定したのでなく、「意味があると思えるまでには10年掛かる」、つまり石塚ができる-贖罪を終え親の供養が終わる-までには10年掛かると、その厳しい道のりを説く。

本作で目の当たりにしたのは、「生きることは食べること」という言葉の現出だった(3日間何も食べていなかった山田が、島田の育てたきゅうりにかぶりつくほどに目に生気が蘇ってくるシーンは圧巻!)。

山田はすさまじいまでにご飯(お米)に執着し、炊飯器の前で炊き上がりを待ち、ブザーが鳴った瞬間に蓋を開ける日常を送っている。
鮨屋の符牒から一般に広まった「お米」を意味する「シャリ」という言葉は、『仏や聖者の遺骨(仏舎利)』『火葬にした後の骨』(goo辞書)を指す。
つまり本作において、山田の積石塚として見立てられるイカの塩辛がご飯に乗せられることから転じて本来の意味での「シャリ」がイカの塩辛の壺に納められるのは、父親の供養に直結しているのではないだろうか(だからこそ、山田はご飯に執着している)。

さらに仏舎利は、『大変尊いものとされていて、細かく砕かれた骨の形と白さが、米粒に似ていることから例えられたという説があ』り、『土にかえり、めぐりめぐって穀物(五穀)となり、人を助けるという、輪廻りんねの教えがあ』るという(食育辞典)。
山田によって潰され細かくされて川っぺりに撒かれた父親の遺骨(シャリ)は、また穀物となって山田の口に入れられるという輪廻を辿ることを示唆するラストシーンは秀逸だ。

こうして”食”や”職”によって「生」を、仏教の概念などによって「死」を表現した本作は、その「生と死」のあいだをも描いていると思う。

それは、どんな者(物)にも必ず「生」と「死」の間には「時間」が存在するということで、本作のタイトルにもある「ムコリッタ(牟呼栗多)」という言葉は、パンフレットによると『仏教における時間の単位のひとつ、1/30日=約48分(「刹那」は最小単位で0.13秒)』を意味するという(だから生と死は同時には起こらず、0.13秒は生きている)。

一番短い単位は「刹那」だが、『過去や将来のことを考えないで、ただ現在の瞬間を充実させて生きればよいとする考え方。また、一時的な快楽を求めようとする考え方』(goo辞書)という「刹那主義」は、良い意味では使われない。
しかし現代は、(現在の時間を充実させるような)タイパが良しとされ時短視聴も一般的になりつつある(本作は120分=2.5ムコリッタ)。
突然竜巻のごとく吹き荒れるがまさに刹那的に消費され、その後の社会や人生に何の影響も与えないどころか、吹き荒れた事さえ忘れ去られてしまうネット上の「トレンドワード」。
そこには、東香名子著『超ライティング大全 「バズる記事」にはこの1冊さえあればいい』(プレジデント社)が書くとおり、『人が1つのタイトルを読み切るまでにかかる時間はおよそ3秒(約23刹那)』『タイトルを最後まで読むかどうかは、最初の1秒(約8刹那)で決まります』となどという煽りが見え隠れする。

社会が「刹那主義」を煽り、人々はそれに翻弄されているように思える。

しかし、隣人と仲良くなるにも、作物が育つにも、イカが生まれて塩辛になるにも、ご飯が炊けるにも、お風呂が沸くにも、仕事に意味を見出すにも、幼い頃に生き別れた父を赦すにも、死に別れた夫の死を受け入れるにも、自分の犯した罪を償うにも、墓石が売れるにも、宇宙人と交信できるにも、膨大な「刹那」を積み重ねが必要なのであり、その膨大な「刹那」の積み重ねの中に、人々は『ささやかなシアワセ』(パンフレットより)を見つけるのではないか。
「刹那」に翻弄されて『ささやかなシアワセ』を見失っている現代人に、本作はそんな当たり前のことを思い出させてくれる。

ちなみに、お彼岸は『春分・秋分を中日ちゅうにちとし、前後各3日を合わせた各7日間(1年で計14日)』(Wikipedia)の期間(14日=420ムコリッタ=155,077刹那)を指すという。

(2022年9月24日。@渋谷・ユーロスペース)



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